考察を進めるために、ここでは近世の哲学者であるウィリアム・バークリーの命題を手がかりとして取り上げてみることにします。
「存在するとは、知覚されることである。 Esse est percipi.」
ウィリアム・バークリー
この命題はバークリーのみならず、カントを経てフッサールに至るまで、近代哲学のひとつの基調をなすものであったといえます。けれども、いま取り組んでいる倫理上の問題について考えてみるとき、この命題は哲学のみならず、人間の日常生活をも支配しているように思われてきます。
「存在するとは知覚されることである」ということは、裏を返せば、知覚されないものは存在しないということになります。そうなってくると、主体である「わたし」(あるいは、公共的言説の主体としての「私たち」)に知覚されることのない見知らぬ他者の苦しみは、存在しないも同然であるということになってしまいかねません。
前回取り上げた「いなくなってしまった人たち」についても、同様のことがいえます。わたしが生活し、労働し、交流する社会空間における他者たちは、この空間内で知覚されるかぎりにおいて存在するとみなされます。ということは、この空間から去ってしまった人間、教室を去っていった生徒や職場から消えた鬱病患者、ジャーナリズムが関心を払うことをやめた難民といった人たちは、存在しないのと同じ扱いになってしまいかねないのではないか……。
バークリーの命題は、現前のモメント、すなわち、「その場にいること(あること)」の特権化をベースにしています。この特権化にはある面で事柄上の必然性があることは確かだとしても、このことによって決定的に捉えそこなうものがあるという可能性には、注意を払う必要があるのではないか。
現前と世界そのものとの取り違えは、無意識のうちに生じてくる。わたしの知らない苦しみに対して開かれているためには、わたしは、この無意識的な取り違えの根深い力につねに抗しつづけることを迫られるのではないだろうか。
有無を言わさない現前のまばゆい光のただ中で、現前しないものの方にも目を注ぎつづけること。倫理は人間に、このような困難なまなざしの向け変えを要求しているように思われます。