私たちは前回、次のような定式に行き当たりました。
終末論のスタンダード:
すべての人の罪のために、この世に終わりが到来する。
たとえば、終末を取り扱うフィクションは、細部の違いはあるにせよ、おおむねこの定式に沿うものである場合が少なくありません。そして、この意味での世界の終わりは、人間の心にきわめて強く働きかけるものを持っているようです。
というのも、人間には次のように感じる根深い傾向が宿っているように思われるからです。
因果応報の原則:
悪いことをすれば、いずれ悪い結果がやって来る。
この原則は単純にして素朴なものであり、かつ、この原則が正しいという保証はありませんが、それでも、人間はこの原則への信を簡単に捨てることはできません。
さらに、この原則の正しさを証明する完璧な根拠はこの世にないとはいえ、この原則を無視して生きるとすれば、何かとてつもなくまずいことが起きるのではないかという疑いは拭い去れません。この予感はほとんど本能のようなものとして、捨てずに保ちつづけておいた方がよいのではないか……。
確かに、理性的な思考の名のもとに、この原則を根拠を欠くものとして捨ててしまうこともできないわけではありません。その場合には、人間はあの、善悪の彼岸というよく知られた目眩のうちに生きるのを選びとるになります。
しかし、あくまでも筆者自身の個人的な見解ではありますが、この善悪の彼岸路線を突っ走るのは、かなりの覚悟がない限りはやめておいた方がよいのではないかと思います。この点については、あまりにリスクが高すぎるので、この路線の提唱者であるニーチェの思想には「取り扱い注意」のラベルを貼っておいた方がよいのではないかと考えているくらいです。
それでもあえて善悪の彼岸に向かって突き進みたいという人がいるとすれば、もはや個人の信念を尊重するほかありませんが、筆者としては、やはりそれでも因果応報の原則の重要性を喚起したいところです。ともあれ、終末論とこの原則の関係をめぐって引き出せる帰結を、この後も引きつづき探ってみることにしたいと思います。