イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

美の本質についての定式化

 
 前回までで、美に関して今回言いたかったことには一区切りがついているのではあるが、なお一つの論点を指摘しておくこととしたい。
 
 
 論点:
 美は真だけではなく、善にも関わる。
 
 
 話が少し複雑になってしまうのではあるが、事柄それ自体がそうなってしまう必然性を抱えているので、やむを得ない。美は存在するもの、すなわち真だけではなく、存在すべきもの、すなわち善にも関わるものと思われるのである。
 
 
 フィボナッチ数と黄金比を始めとして、美にはさまざまな数的関係が関わってくることは広く知られている。おそらく、感覚的な美というのは、無意識のうちにではあれ、現象のうちに〈数〉を見て取ることだと言ってもよいのだろう。
 
 
 また、フィクションの作品にしても、よい作品というのは、この世の真実を描くことに成功しているだけではなく、どこかで世界や人間のあるべき姿を描くことをも成し遂げているのでなければならない。私たちは、たとえ一見すると破天荒以外の何物をも見出すことのできないような「インモラルな」作品を鑑賞する時でさえも、実はある種の倫理基準を密かに前提しながら観ているのであって、私たちにとって、倫理とはかくも根深く手放しがたきものなのである(cf.善悪の彼岸の不可能性という哲学問題)。
 
 
 美なるものは、真と善の間で揺れ動くことをその本質としている。真なき善は空しいが、善なき真もまたわれわれを失望させる。美は、真でありかつ善であるという、まさしく稀にして困難な地点へと赴くようにわれわれを鼓舞してしてやまないのである。
 
 
 
フィボナッチ数 黄金比 美の本質 善 カント 真理
 
 
 
 美の本質についての定式化:
 美とは、存在すべきものである限りの、存在するものから放たれる輝きである。
 
 
 後に論じることとの関係で、善よりも真の方に焦点を当てるのが今回の主眼点なので、善については軽く触れるにとどめることになってしまったが、これが現時点における、美の本質についての筆者の定式化である。このテーゼをもって「美とは何か」という、6月20日の記事で提出した問いにはとりあえずの解答を提出した形としたい。
 
 
 「存在すべきものである限りの、存在するもの」は人間の魂あるいは意識のうちに、認識能力の自由な戯れの状態を引き起こす。その限りにおいて、主観性という場に定位しつつ美の本質を探求したカントの功績は限りないものであるといえるが、ここでは、彼の議論の核心的な部分を論じた上で、そこで捉えた美を主観性の場から超越概念あるいは〈ものdas Ding〉の世界へと解き放ってみたことになる。その試みの成否のいかんについては哲学者諸賢の判定を待つほかないが、議論の掘り下げの徹底性にはなお限りない改善の余地があるにしても、筆者は上の最終的な定式化については、少なくとも方向性としては悪くないのではないかと感じている。
 
 
 以上、本質の真理の内実を論じるための一例として、「美とは何か」という問いに対する答えを探ってみた。美の本質についての考察をさらに掘り下げてゆくことは他日に回すこととして、これより後は「真理とは何か」というそもそもの論究の主題に戻ることとしたい。