夜神月のような特異な人物が倫理のあり方を揺るがす地点に踏みとどまりつつ、もう少し検討を加えてみます。
倫理的判断についての二択:
1. ある行為についての倫理的判断は、その行為がもたらす結果とは関係なくなされるべきである。(コモン・センスの立場)
2. ある行為についての倫理的判断は、その行為がもたらす結果によって変動する。(決断主義の立場)
「人を殺してはならない」という倫理法則を例にとって考えてみましょう。
基本的に1の立場が正しいとされている私たちの世界においては、殺人が許されることはどんな場合にもありません。ある時は殺人は許され、別の時には許されない(仮言命法)というのではなく、殺人は恒常的に悪とされます(定言命法)。
しかし、夜神月のような成功した(しつつある)デスノート使用者は、その私たちの世界を支えている原理そのものに揺さぶりをかけてきます。2の立場からは、「殺すことによって世界から暴虐と悲惨がなくなるのであるならば、殺すことは罪にはならないのだ」という主張がありうるからです。
かくして、2の立場によるならば、殺すことは場合によって許されうる、さらには善とみなされることすらありうるという結論が導かれることになります。この帰結ははたして、哲学が承認すべきものなのであろうか……。
前回の記事ですでに触れたことに関わりますが、ニッコロ・マキャヴェッリは統治者としての君主については、2の立場から統治術としての殺人を容認しています(君主の鑑としてのチェーザレ・ボルジア)。筆者自身は彼の主張を丸ごと承認することはできませんが、この立場にも一定の論拠があることは否定できません。
ある地域の治安が乱れていて、おぞましい犯罪が日夜行われつづけているとする。
この場合、住民たちの道徳性が回復するのを待っている余裕はない。必要なのは、たとえばある特定の犯罪者を見せしめとして残虐なしかたで処刑することであり、力と恐怖による治安回復は、極めて速やかに行われることだろう……。
……このような議論は、『君主論』におけるマキャヴェッリの主張に大きく重なるものであるといえます。筆者としてはこうした議論は受け入れることのできないものですが(主の愛に著しく反する)、もう少し哲学の立場からこの点について掘り下げてみることにします。