論点:
存在の超絶を認めることは、すべての倫理の出発点なのではなかろうか。
他者であるあなたの「わたしはある」を、わたし自身の「わたしはある」と同等の重みを持つ事実として認めること。あるいは、そのことを超えて、あなたの「わたしはある」へ向かうために、わたしの「わたしはある」の特権性を自ら放擲すること。
おそらく、倫理はこのような放棄と承認から始まる。他者を迎え入れるのと共に、わたしは自らの独在論的な特権を断念して、自分自身を他の人間たちと同じ「一人の人間」の地位にまで引き下げる(これが、「存在論的なへり下り」である)。
「汝、殺すなかれ」は、そしてまた、あらゆる「社会契約」は、わたしのこのような「人間化」を前提としてはじめて成り立つのではないだろうか。その意味では、存在の超絶は倫理のみならず、あらゆる社会哲学の根源でもあると言えるのかもしれぬ。
ともあれ、存在問題と倫理とは、こうして両者の根底において絡み合う。存在の思索は、その極限においてこの上なく厳粛な「汝、殺すなかれ」の声を聞き取るのである。哲学は、形而上学と倫理とが分かち難いものになるこの地点をこそ思考する必要があるのではないだろうか。
別の仕方で表現するならば、倫理とは、わたし自身を「考える意識」としてのみならず、他者たちとの関わりの中で生きる「この人間」としても引き受けてゆくことである。他者であるあなたが要求するのはこのへり下りに他ならず、それはつまるところ、あなたの「わたしはある」から見るならば、わたしは独在論性を剥ぎ取られた「ただの人間」であることを承認することを意味するはずである。
超絶は、倫理を要求する。逆に言うならば、倫理は超絶にその根源を持つ。のみならず、わたしがわたし自身の彼方へ赴くこと、わたしが、わたし自身の外へ置かれるという意味での「脱我」を被ることこそが、おそらくは倫理のみならず、愛という言葉の本当の意味なのではあるまいか。
もしもそのように言うことが許されるならば、超絶は倫理であるのみならず、超絶はまた愛でもあるということになるだろう。ここには、自己愛から徹底的に切り離された愛、ほとんど脱我と息切れでしかないような愛の可能性が示唆されているのではないかと思われるが、おそらく我々は、他者についての探求の限界点にこの辺りで達しつつあるのではないかとも思われるのである。