「いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。」
僕にはこれまで、太宰治の作品が深く心に染みたことはあまりありませんでしたが、さきの一週間を通して、太宰が描こうとしていたものを実感を通して理解することができたような気がしました。少し暗くなってしまいますが、自分の心のあり方について内省することも、哲学の営みの一部のはずです!魂の内側にメスを入れて、その時のことを振り返ってみることにします。
心身ともにダメになってしまったと感じたとき、僕には、文字どおり何も残っていないように思いました。人生の道も絶たれ、眼のほうにも一ヶ月ちかく耐えがたい苦痛を感じつづけ、頭痛もずっとつづいていました。最初のうちは「辛い……。」とか、「でも、頑張らなくては……。」と思っていましたが、だんだん、そうした感情もなくなってゆきました。
最後には、ただ漠然とした、「もう、終わりなんだ。もういいから、全部終わりにしてほしい」という、空っぽの感情だけが残りました。すべてを取りさっていったときに残ったのは、ただ生きているという、むき出しの事実でした。
絶望するとは、自分のむき出しの生のすがたを、本当の意味で知るということなのかもしれません。人生には何もなく、残されているのは、ただ死んでゆくだけの未来しかない。今回の僕は、将来のなさと眼の激しい苦痛のせいでこうした体験のうちに巻きこまれてゆくことになりましたが、絶望の体験においては、外面的な事情は、本当はあまり関係ないのかもしれません。
哲学や文学のさまざまな本を読んでいると、僕が味わったような体験は、人間にとって普遍的なものであることがわかります。思い返してみると、これまでの僕も、これと似たような体験を何度か味わっていますし、おそらく、たとえ今回のことがなかったとしても、いずれはどこかの機会で同じ場所に落ちこんでいたのではないかという気もします。そして、言うまでもなく、苦しむということについては、なにも世界のなかで自分だけが特別なわけではありません。生きてゆくかぎりは、誰しもが同じような体験を味わうことになるのだと思います。
しかし、そういうことを考えられるのも、ひとたび事が収まってからです。絶望の最中は、他の人のことも、哲学の営みも何もあったものではありません!10月の時もだいぶきつかったですが、今回はそれを凌駕する、ディープでアルティメットな苦痛でした!哲学や文学が好きな人には、自分の魂を必要以上に危ないところに引きずっていってしまう部分があることは否定できません……。ただ、今はいちど死んで復活したので、少なくともある程度は元気です。しばらくは、じっくりとリハビリの日々を過ごすことにします。
今回のことを通して学んだことが、一つあります。それは、この世の中には、ただ生きてゆくことが辛くて辛くてどうしようもないと感じている人が、いつでもどこかに存在しているということです。そうした人びとは、他の人から見るとそれほど大変ではないように見えたとしても、すべてを捨ててしまいたいと思うほどに苦しみうめきながら、そうすることもできないままに、血を吐くようにして日々の生活を送りつづけています。
そう思ったとき、太宰治の『人間失格』のような本がこれまでずっと読まれつづけてきたことの意味が、自分にも少しだけわかったような気がしました。正直に言って、今はまだ、自分の人生のことだけで手一杯ですが、他の人の痛みのことがちゃんと見えるようになった時にこそ、はじめて人の心を動かす本物の文章が書けるようになるのかもしれません。マスカルポーネはちみつパンやジョージ・ベンソンの音楽に助けてもらいながら、これからもゆっくり考えてみることにします。