「本当は、永遠なるものだけが存在する。」悟りの道ともいうべき考え方は、つまるところ、この主張に要約されます。
わたしは存在するのか、しないのか。そして、永遠なるものがどのようなステータスを持つものであるのかといった点について、この道には、実にさまざまなヴァリエーションがあります。けれども、私たちの探求の主題は死に限定されているので、思いきって、ものごとをきわめてシンプルに考えてみることにしましょう。
悟りの道は永遠なるものに、概念と直観によってたどりつこうとします。
この道を進む人間はまず、徹底的に言語という存在に向きあいます。存在するものとは、何なのか。そもそも、存在するとはどういうことなのか。厳しくはてしない探求がくり広げられます。
そのうちに、人間や事物といったもののレヴェルを超えた、ある何ものかの存在が、うっすらと浮かびあがってくる。知恵の探求をつづけるにつれて、このものの存在は、かれにとって、ますます確かなものらしく思われるようになってきます。
しかし、最後のところでは、かれは言葉や概念のうちにとどまっているわけにはゆきません。永遠なるものは、言うなれば、肉体の眼ではない眼によってこそ認識されうるからです。
今までかれは、人間としてこの世界を眺めていました。今やかれは、〈それ〉の側から世界を知的に直観することを求められます。
「意味をなしていない主張だ。無意味だ。」けれども、ベルグソンも言っているように、哲学という営みは、本当は直観という行為なしにはありえません。言語の分析や概念による構築だけでは、おそらく、永遠に無味乾燥な砂漠が待ちもうけているだけです。
少なくとも、死の問題を解決しようとするならば、ある言葉にできない深淵を超える必要があるでしょう。知恵の探求の果てに向こう岸にたどりついたとき、あの永遠なるものの存在が、ついにかれにたいして、まるで稲妻のように啓示されることになるはずです。