イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真のわたしについて

 
 呼びかけによって無意識の真理があらわになるとき、ある重大な転換が起こることになります。
 
 
 それは、いまや神を求めることになったわたし自身が、神の存在によって揺さぶられるということです。それまでのわたしには、まさか自分が神のことを呼び求めることになるとは、想像すら及ばなかったことでしょう。
 
 
 このように、わたしはいわば、わたし自身に反するようにして神を求めます。けれども、見方を変えるならば、この瞬間にこそ無意識の領域のうちに眠りこんでいた本当のわたしが目覚めるのだと言えるのかもしれません。
 
 
 それまでのわたしは、思考の原罪に捕らえられたわたしのことをわたし自身であると思いこんでいました。ところが、死の可能性を前にして、罪のうちにあったわたしは死にました。
 
 
 いまや、無意識のうちにずっと存在しつづけていた真のわたしが、罪のうちで死んだわたしに代わって生きはじめます。その意味からすると、わたしは、死ぬことによってこそはじめて生きるのだと言えるのかもしれません。
 
 
 
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 真のわたしとは、生きている神に向きあって生きるわたしにほかなりません。「神は無意識的である。」そう述べたジャック・ラカンという人は、どうやらこの定式のことを無神論に属するものであると考えていたようですが、僕は逆に、この定式こそは現代の信仰にふたたび生命力を与えうるものなのではないかと考えています。
 
 
 「無意識のうちに、誰もが神のことを信じている。」救いの道は、隠れて見えなくなっていた真のわたしに気づくことによって、死に向きあおうとする道であるといえます。
 
 
 ただし、たとえわたしが真のわたしを生きるようになったとしても、わたし自身には死から逃れる力はまったくありません。
 
 
 真のわたしとは、ただの人間 homo tantumであり、依然として死にうる存在にすぎず、ただそのわたしが向かいあう絶対的な他者である神だけが、救いの可能性を握っているといえる。
 
 
 こうしてみると、真のわたしとはまずもって、絶対的に他なるものにすべてを委ねざるをえない存在であるといえます。みずからの弱さを徹底して自覚することが、人間をみずからの本来性に向かわせるのだといえるのかもしれません。