救いの道において見いだされる真のわたしとは、悟りの道における永遠のわたしとは異なり、どこまでも弱い存在です。わたしなるものは、あらゆる弱さに、とりわけ死の次元に避けようもなくさらされています。
神に呼びかける以前のわたしは、自分の内にあるこの弱さを見ようとしてはいませんでした。弱さはいわば、無意識のうちに見えないところに押しこめられていたというわけです。
したがって、わたしは、呼びかけることによってはじめて本当の意味で絶望することになります。というのも、絶望はそれまで、わたしの魂の深いところに慎重に隠されつづけていたからです。
悟りの道には、この絶望がないか、あるいは、あるにしても永遠なるものの啓示によって、最後には乗り越えられてしまうように見えます。これにたいして、わたしが神に呼びかけるさいには、必ず絶望とともに呼びかけるのであり、この絶望というモメントが隠蔽されることは決してないでしょう。
みずからの惨めさを直視しつづけること。救いの道は、このことをどこまでも要求します。そして、このことこそが、わたしに根本的な転換をもたらしうるのだといえる。
みずからが背負っている自己性を、滅ぼしつくすこと。自己性を殺して殺して、殺しつくすことによって、そののちに自己性には決して収まりきらない次元が立ちあらわれてくるのを待ちつづけること。
もちろん、悟りの道においても自己否定のモメントが欠かせないものであることは、いうまでもありません。
けれども、自己性と他者性を曖昧さのうちに混在させている悟りの道において、この否定をゆきつくべきリミットにまでもたらすことができるのだろうか。二つの道のあいだの対話を進めるために、ここではあえて、そのような疑問を投げかけておくことにしたい。
本当は、哲学の次元においては意見の一致は表面的なものにすぎず、人間にできるのは、ただ自分の道を突き進んでゆくことのみなのかもしれません。「救いの道においてこそ、絶望は最後のところまで徹底されうるのではないか。」今回は、これを結論としておくことにします。