イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

堕天使崇拝に抗する

 
 悪魔なるものの由来を考えるならば、恋愛の秘密にもすぐに納得がゆきます。信仰の言葉によるならば、悪魔とは堕天使、つまり、天から追放された天使のなれの果てであるというのです。
 
 
 恋する若者にとって、愛しい彼女は、堕天使とまったく同じ存在論的ステータスを持っています。ただし、こういうケースにおいては往々にしてそうであるように、かれは彼女のことを、清らかな天使そのものであると思いこんでいます。
 
 
 「彼女は完璧であり、汚れがなく、どこまでも清らかだ。」
 
 
 なるほど。それでは、なぜ彼女はあんなにも身づくろいに熱心なのでしょう。清らかな品行で身を飾っているならば、化粧とおしゃれはもっと簡潔なものですむはずではないですか。
 
 
 「彼女は、何よりも哲学や芸術を愛している。彼女には、この世のものではなく、あの永遠なるものこそがふさわしいのだ。」
 
 
 そうかもしれない。けれども、ひょっとすると彼女は、永遠なるものを愛しているのではなく、永遠なるものを愛している自分自身を愛しているのかもしれない。偶像崇拝とまことの信仰とは、そのくらいに見分けるのが難しいのです。
 
 
 
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 真理への愛と、そこからの、わずかではあるが決定的な逸脱。愛しい彼女のうちに堕天使的なものの存在を認めるというのは、かなりの熟練を必要とすることであるといえます。
 
 
 何よりも、若者がまだあの肉の欲なるものに引きずられて、天なるものを真に天なるものとして憧れ求めていないからこそ、かれは口紅をつけたあの堕天使に地獄まで連れてゆかれることになるのです。おそらく、君はまだ、天上のものと地上のものをなにか取り違えていはしまいか。
 
 
 「そんなことはありません。僕の彼女への愛は、肉体を超えた永遠のものです。彼女の身体ではなく、あの愛らしい瞳でもなく、何よりも、彼女の美しい、あの魂こそが……。」
 
 
 なるほど。そんなに美しい魂をもった人が、たまたまあのようなスカートをはいているだけだと、君は言うのか。マハトマ・ガンディーやマザー・テレサの魂よりも彼女の魂のほうが美しいと君がもし言い張るのならば、ことの正否を下すのは私たち人間ではなく、神ご自身の裁定に任せることにしようではないか。