ところで、哲学者ならば、アンダーグラウンドからの一点突破をめざすといっても、この世に認められること、売れることを第一目標に据えるわけにはゆきません。
バビロンの誘惑については、すでに前回のシリーズにおいても取り扱いましたが、アンダーグラウンドの荒野を生きのびることを考えるとき、おそらく、この誘惑はいっそう苛烈なものとなってこざるをえないでしょう。
「どうやって食べてゆくんだい。君には、論文の業績すら一本もないじゃないか……。」
サタンよ、お前の言いたいことはわかっているつもりだ。しかし、哲学者はパンのみに生くるにあらず。真理と愛、それに何よりも神こそが、道を照らす灯火なのだ。
「いや君、落ちつきたまえよ!なにも君の魂を売れっていうんじゃない。ただ、マーケティングなしの行動は、自殺行為にひとしいぞ。現代っていう時代を、甘く見ちゃいけない……。」
神は、真理に生きるものをけっして見捨てたりはしない。サタンよ、現代には現代のやり方があるかもしれないが、哲学者にも哲学者のやり方がある。哲学者の歩む道は、この世の道ではないのだ……!
ここまでのウルトラ・ヒロイズムの道を勝手に突っ走ってゆくかは別にするにしても、哲学者にとって、自分と真理にたいして嘘のないもの追い求めつづけることはきわめて重要であるように思われます。
そもそも、曲がりなりにもアンダーグラウンドを選択したということは、アンダーグラウンドにしかない自由があったからのはずです。自由に向かって跳躍したはずが、実は名誉欲と金銭に身を売り渡していたというのでは、まさに本末転倒であるといわざるをえないでしょう。
超絶にディープな思考を求めて概念の荒野をさまよいつづける哲学者というのは、少なくともイデーとしてはとてつもなくカッコいいと思われるのですが、どうなのでしょうか。筆者の感覚自体がすでにまともではなくなっており、もはや何が現実で何が現実でないのかすら認識できていないのではないかという疑いを無視することはできませんが、もう少しこの路線で考えてみることにします……!