イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

善き師についての探求の終わりに

 
 今回の探求の結論:
 哲学の善き師であるためには何よりもまず、真理を憧れ求めることが必要であろう。
 
 
 結局、愛知者(フィロソフォス)としての哲学者という語源にふさわしい結論になった、というか非常に穏当、もっと言えばかなりフツーな結論になってしまったような気もする。しかし、この点についてはやはり、筆者もこの辺りで心構えを新たにしておく必要がありそうである。
 
 
 本気で真理を憧れ求めることなく、ただ人から知者であると思われたがっているだけであるならば、その人は哲学者ではなくソフィストであろう。そして、ものを書くということが危険であるというのはまずもって、それが哲学者として書くというのではなく、ソフィストとして書くことへと容易に落ち込んでしまいかねないからなのではないだろうか。上に掲げた結論は一見すると当たり前のものとも思えて、実践上は決して当たり前のものとして求められているわけではないのではないかという気がしなくもない。
 
 
 われわれ哲学徒は一体、どれだけ真剣に真理を憧れ求めているのだろうか。「私はまだ、色を好むように徳を好む人間を見たことがない」とは、孔子先生の至言である。このような言葉を残した孔子その人の生きざまは、どうだったのであろうか。twiceにもモモランドにも決して惑わされることなく、決然として真理の道を歩み続けていたのであろうか……。
 
 
 
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 道は遥かである。大空を満たす満点の星々を仰ぐような思いで決意を新たにしつつ、思索の荒野のさらに奥の奥へと歩み入ってゆかねばならぬ。
 
 
ところで、今回の結論が「真理を憧れ求めることが必要である」ということであるからには、次に引き続く問いは当然のことながら「真理とは何か」というものにならざるをえないものと思われる。正直、あまりにもど直球ストレートな問いであるがゆえに臆したくなる気持ちがないわけでもないが、やはり、この問いから逃げるわけにはゆかないであろう。
 
 
 書きたいことも書いてしまったゆえ、今回はここで筆をおくこととしたい。いつもながら、限りなくマニアックなこのブログを読んでくださっている哲学徒の方々には感謝というほかないのであるが、個人的にはここから先もどんどん哲学の根本問題に突っ込んでゆく予定なので、興味のある奇特な方は、お時間のある時にでもパラパラと読んでいただければ幸いなのである。