前回は地味さについて考えてみましたが、本当は、ここはもう少し突っこんだ考察が必要かもしれません。
「本当の命はこの世の喧騒から離れたところにしか見つからないものだとしたら、どうだろうか。」
哲学者、それから芸術家は、この世のさまざまな組織や人々の営みに従属することを求められてはいません。この比類のない自由を与えられるかわりに、哲学者と芸術家は、人間にとって何が本当の善であるのかを仮借なく探求することを求められます。
探求へのこの要請は、見方によってはこの世のどんな力による圧迫にも劣らないほどに厳しいものであるといえます。なぜなら、哲学者や芸術家には、「他のみんなだってこう考えているのだから、仕方がないではないか」という弁解が許されることはないからです。
もちろん、哲学者や芸術家も弱い人間の一員にすぎないので、現実にはどこかでこの世と妥協するところがないと、生きてゆけません。また、弱さゆえの彼ら自身のつぶやき、「この世でうまくやってゆきたい、認められたい」という誘惑の声の強さは、おそらくどれほど強調してもしすぎることはないでしょう。
それでも、彼らにはこの誘惑の声とは別に、「あなたはこの世と妥協してはならない」というもう一つ別の声も響いています。その声はこの世の喧騒と比べるととても小さなものではありますが、その静けさのうちに含まれる断固とした口調は、けっして揺らぐことがありません。
その意味からいうと、20世紀後半は比較的自由の大きい時代であったといえそうですが(ただし豊かな先進国に限る)、近年の世界がふたたび思考の営みそれ自体の閉塞の雰囲気を漂わせつつあることは、多くの人も感じているのではないかと思います。
「隠れて、生きよ。」エピクロスは、人間が本当の意味での自由を生きるためには、この世から逃れることが必要であると主張していました。ある哲学の価値は、喧騒を避けることをたんなる逃避ではなく、考えるべきことを考えるための鍛錬とすることができたかどうかで測られる部分はあるのではないかと思われます。