イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実在の探求

 
 論点:
 認識能力の戯れによる快の経験は、その深度が増すにつれて、真剣な仕事という側面が大きくなってゆく。
 
 
 実在するものを描き、書くというのは、非常に労多き仕事であることは確かである。そのためには、実在を作り上げている複雑繊細な構造を丹念に追うことも必要だろうし、実在のうちに走る、ほとんど思考することの不可能な亀裂にも直面しなければならない。
 
 
 私たちの日常世界ではふつう、そうした構造や亀裂は存在しないことになっている。その理由は根本のところでは単純なもので、そうした構造や亀裂は、私たちの感覚や思考の粗野な網目では捉えきれないからだ。私たち人間には根深く怠惰なところがあり、本物の感覚や思考の代わりに出来合いの認識パターンやドクサで済ましてしまおうとする傾向を抱えているので、そうしたものの捉えがたさに正面から向き合うよりは、それらを存在しないことにしてしまうことの方を選びがちなのである。
 
 
 哲学や芸術はしかし、こうした構造や亀裂の方に突き進んでいって、そこから概念や感覚を引きずり出してこようとする。そうした試みは社会的な生産の回路には収まらないところがあるので、確かに一種の遊びのようにも見えるけれど、その遊びにおいては自己と事物の自己同一性が崩壊し、再形成されるので、真剣この上ない遊びであるとも言える。それはおそらく、その本質においては仕事と呼ぶのにふさわしいような営みなのではないだろうか。
 
 
 
哲学 芸術 モネ 認識 実在 天気
 
 
 
 実在の奥深さという論点について、もう少し考えてみよう。たとえば、熟練した哲学者同士の間ならば、今日の天気という主題について、五時間くらいは語り合うことが可能なのではないかと思われる。
 
 
 今日の天気はここ数日、ここ数ヶ月の時の流れの中で、どのようにして他のどの日でもない「今日の天気」たりえているのか。その気候は思考するという営みに、また、思考する人間存在に対して、どのような意味で好意的に、あるいは敵対的に振舞っているのか(あるいは、思考に敵対する気象なるものは、果たしてありうるのか)。そもそも、今日とは何か。天気とは何か。
 
 
 これらの問いは非常に膨大なものであるため、とても短い時間で語り尽くせるようなものではなさそうである。この例は若干極端なものであるようにも見えるけれども、たとえば、モネのような画家は藁積みが大気や日の光の変化によってどのように違って見えるのかを田舎に引きこもって延々と探求し続けたというから、芸術にしても事情は同じようなものであると言えなくはなさそうである。
 
 
 自明なものは、その根底においては自明ではありえないものの隠れた戯れと働きによって形づくられ、織り上げられている。哲学や芸術が当たり前のはずの事象にどこまでもこだわり続けるのは、そうすることが実は、驚嘆すべきものに出会うための最も手近な方法であることを予感しているからなのである。哲学や芸術は、その意味では一種の戯れであるのと同時に、実在の飽くなき探求であるとも言えるのではないかと思われる。