イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

新しい秩序へ

 
 そろそろ、問いかけの方向を向け変えてみることにします。
 

 「デスノートによって実現される新世界は、今のこの世界よりも善いものであると言えるだろうか。」
 

 いま仮に、デスノート使用者による「粛清」の企てがことごとく成功し、彼の望む世界が到来したとしてみましょう。この世界は、人間がおよそ犯罪と呼ばれる行為に手を染めることのない世界です。
 
 
 すなわち、人間は「悪いことをすれば殺されてしまう」という恐れから、悪に踏み出すことを避けるようになります。ひょっとしたら死ぬかもしれないという危険を冒してまで行いたい「悪」というのは、なかなかないのではないでしょうか。
 

 誰も他の人を傷つけることのない世界というイデーには、望ましいものがあることは否定すべくもありません。しかし、それが罰される恐怖に由来するものである場合にも、果たして望ましいと言いうるのだろうか。
 

 恐怖政治によって実現される道徳的ユートピアは、現実の世界に勝るのか。この問いは、政治哲学の観点からはきわめて重要なものになってくるように思われます。
 
 
 
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 恐怖による平和なるものには何かおぞましいところがあることは間違いなさそうですが、その一方で、この世から犯罪がなくなるという事態には大きな意味があるということもまた、否定できません。
 

 この世は、誰かが誰かを傷つけるということを当たり前のこととして受け入れている。
 

 しかし、その「当たり前」がすべてひっくり返るとしたらどうだろう。そこでは、人の意志による悪が行われることはもはや有り得ない。
 

 殺人も搾取も、盗みも強奪もない世界を、にわかに想像することは困難です。けれども、仮に戦争さえもがこの世からなくなるのだとしたら(ex. シリアの内戦は、構造的にいってこのままでは当面は終わる可能性がない……)、何としてもそういう世界に向かって人間は努力するべきではないのか。
 

 「たとえ少数の人間を犠牲にしてでも……。」この最後の一文を付け加えるかどうかで、その人がデスノート主義者かどうかが決まります。これから、デスノート使用者にとっての新世界なるものについてもう少し掘り下げてみることにします。