「この時代にあって、哲学者とは一体何であるのか。」
すでに、知識人という言葉が実質的にみて意味を失いつつあるこの時代にあって、哲学者であるということの意味もまた、自明ではなくなっています。
自然科学の開拓者でもあった近世の哲学者たちはおそらく、ひょっとしたら自分たちが無用な存在なのではないかという疑いを持つことはほとんどなかったことでしょう。哲学の肩身は、時代が下るにつれてますます狭くなってゆきました。
ひるがえって、自分に与えられているのはただ、この世の片隅のブログのこのページのみである。岩波入りを目指すもよかろう。だが、俺は一体何をこの世に残すつもりなのか。哲学者にしかできないこととは、果たして一体なんだ。
刀を使えない時代に生きるサムライのごとく、もはやおのれにふさわしい場所を持たないままに、ブログの真っ白な画面(Presented by 株式会社はてな)をこの俺の文字で埋め尽くさねばならない。俺の俺による、俺のための場所だ(金のない俺には、月額1000円の維持費すらままならぬ)。だが、そこには俺という名の風以外、何ひとつ吹いてはいない……。
わからない。なぜ突然に、こんな行き場のない自問自答を始めてしまったのか。ぶっちゃけて言うならば、このまま一生ブログでこうやって一人でつぶやき続けるだけなのかと、だんだん不安になってきたからというのもある。
同時代の評価を気にするべきではないと、前回俺は書いた。「では、あなたは同時代から認められたくないのか。」認められたくないわけがなかろう。だが、俺にはムリなのである。何をやったら認められるか見当すらつかないくらいに、俺の生き方はブレまくっているのである。
ぶっちゃけて言おう。岩波入りどころか、もう俺は、完全に諦めモードに入りそうなのである。俺はもうダメだ。ていうか、そのうち俺よりもはるかに年下の若手哲学者とかが出てきちゃったりしたら、その時にはもはや俺の鬱病の進行を止めるものは何もないのである……。
……大変見苦しい記事になってしまったことはお詫びする他ありませんが、ラストサムライとしての哲学者というテーマは、一定の普遍性を持っていなくはないように思われます。哲学の終わりと岩波文庫をめぐるこの探求を、もう少し続けてみることにします。