しつこくてごめん。ちょっとだけでいいから、僕の話を聞いてはもらえまいか。
「……また、ジェームズですか?」
うん。なんか、あれからジェームズのあたりがまだ痛んでる気がして、心配が全然消えないのである。これはもはや、呪いみたいなものである。
哲学的に見て興味深いのは、この痛みが現実のものなのか自分が作り出しているものなのか、僕には決定できないという点だ。体って、痛いと思い始めたら本当に痛くなってくる。気にしないのが一番なんだろうけど、気になってることを気にしないのってめちゃくちゃ難しい。
ある著名な心理学の実験の課題:
「決して、ゾウのことを考えるな。」
そう言われて、それを守るということはほとんど不可能である。なぜといって、ゾウさんの考えないようにしなくてはと思えば思うほど、ゾウさんのことを思い浮かべずにはいられないではないか。そして、僕は僕で僕のゾウさんのことを、どうやって考えずに済ませというのか。
昔よりは心配性でなくなってきたとは思うのだが、まだまだおのれの心の弱さは否めないのである。鋼の精神を持っていれば、ゾウさんの痛みを含むあらゆる苦境も何のことはないのではあろうが……。
でも、たとえばストア派の人たちがいうアパテイアって、なんか無理あるような気もするのである。
アパテイア:
情念にもはや揺り動かされることのない、絶対的寂静の境地。
情念にもはや揺り動かされることのない、絶対的寂静の境地。
重い病気だったらどうしようとか、やっぱ死ぬの怖いとか、そういう感情はたぶん完全にはなくせないし、なくしちゃったらもはや人ではないような気もする。『告白』のアウグスティヌス先生ではないが、喜ぶべきところで喜び、悲しむべきところで悲しむのが、やはり人間らしい生き方ではなかろうか。
あらゆる出来事に本気でぶつかって、そのたびに本気で感動しつづける人こそ、もののあわれを知る人である(by 本居宣長)。となると、心配症で悩むのもまた人生であり、おお心配だ心配だゾウさんが心配だ、僕の体よ愛しいジェームズよと心配症の歌を歌い上げるのも、またもののあわれということになるのであろうか。
考えることに熱中してたら痛みが気にならなくなってたけど、気にならなくなったことに気がついたらまた痛みが再開しだしだのである。心配症の時にはとにかく哲学して忘れるしかないということで、とりあえずは結びとすることとしたい。