イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

運命としての自己欺瞞

 
 友情の運命:
 もしも、わたしが友と共に友情を、愛する人と共に愛情を追い求め続けるならば、わたしとその人はどこかの時点で、双方のうちに弱さと罪とを見出すであろう。
 
 
 正しい人、完璧な人は一人もいません。したがって、わたしが親友の、また、運命の恋人のうちにいずれ見出すことになるのは、清さではなく弱さであり、純粋さではなく罪であるということになるでしょう。
 
 
 この弱さと罪とは、どのような意味においても善となることはありえません。それらは、「あなたの弱さすら好ましい」と言えるようなものでは決してなく(そうであるとすれば、その弱さは弱さではなくして、逆説的な美徳に過ぎなかったことになろう)、「あなたの犯す罪が、わたしを幸福にする」と口にできるようなものでもありません(そうであるとすれば、その罪は罪ではなくして、あの甘美な不協和音なるものでしかなかったということになろう)。
 
 
 言うまでもなく、罪と弱さは友や愛するあの人のうちにだけではなく、わたしのうちにも存在しています。
 
 
 わたしの罪は、わたしがただ一人である間には見えなくなっていました。誰も、自分自身の心の奥深くに住み着いている罪を直視したい人間はいません。わたしには、自分自身のことを美しき魂として思い描くことがかくも根深い習慣となってしまっており、自己欺瞞は、それが美的なものであれ倫理的なものであれ、あるいは宗教的なものであれ、わたし自身の本当の姿からわたしの目を背けさせることしかしてこなかったからです。
 
 
 
友情 スマートフォン タブレット ディスプレイ 罪
 
 
 
 そういうわけで、ただ一人でいる時には、わたしの罪はいわば死んでおり、より正確に言えば、隠れています。罪は罪として正体を現すことがなく、わたしは自分自身のことを、あらゆる咎と欺瞞から逃れた無垢な魂として夢想することでしょう。
 
 
 現代のテクノロジーは、人間が他者との現実的な関わりを持たないままに、世界中のあらゆる場所や状況を覗き見ることを可能にしています。無為のわたしがスマートフォンの画面やタブレットのディスプレイを通して目撃するのは、あらゆる国と地域の他者たちが繰り広げる、醜い罪の数々です。
 
 
 かくして、わたしは自己欺瞞のうちに世界に対して絶望し、世界中で繰り広げられている糾弾と炎上の乱痴気騒ぎに手を貸すことさえあるかもしれませんが、その際に、他者たちを裁くわたし自身が見過ごしているのは、罪はわたしのうちに存在しないのではなく、ただわたし自身の目から隠されているに過ぎないということです。醜さは特定の他者たちの中のみならず、すべての人間の、何よりも、他の誰でもないわたし自身の中に見出されるということは、注意を払っておいてもよい事実であると言えるかもしれません。