友情のディープ・フェーズ:
友情はその追求の過程のただ中において、友のうちに一人の異邦人を発見する。
友情とは互いの存在を受け入れ、分かち合うことだとすれば(前回の記事参照)、友と関わる人間は、遅かれ早かれ、どこかの時点で友のうちに〈同〉には還元されないものを見出すことになります。
私は友のうちに、魂の完全な一致を見出すつもりでした。私と友とが友人である限り、一致というこの理念が死に絶えることはありませんが、今やわたしが友のうちに見出すのは、わたしならざるもの、わたしという世界のうちには決して存在しえないものに他なりません。
私やあなたを始めとして、すべての人間は各人に固有な特異性の持ち主です。
「此性 Haecceitas」とは、普遍性や一般性に回収することができない、個物に内在する性質のことをいいます。ベルグソンが言うように、哲学の仕事とは、他の何ものでもないそのものだけに当てはまる概念を見出すことであるとすれば、哲学者が友のうちに発見すべきものとは、わたしの鏡ではなくわたしの他者、それも、わたしのあらゆる想像を越えたところからわたしに向かって語り続けている他者にほかならないと言えるでしょう。
しかし、他者のうちに見出されるこの無限の多様性、あるいは特異性は、無条件に喜ばしいものとして歓待できるようなものではありません。喜ぶことができるとは〈同〉の領域を出ないということでもあるので、他者の他者性を肯定的なものとして夢想することは、ある意味では、他者をわたしにとって都合のよいものとしてマウンティングしてゆくことであるとさえ言えなくはないかもしれません。
誰もが知っているように、現代の先進国が直面している最も深刻な問題の一つとは、かつては多様性として称揚されていたはずの〈他なるもの〉が、今や自国民を脅かす「異物」あるいは「厄介な他者」として、あらゆるところで政治的な混乱を引き起こしているという事態です(アメリカ大統領選やイギリスのEU脱退といった選挙での「番狂わせ」は今や、二十一世紀初頭の政治的状況の典型となった)。
このことは〈同〉の維持に例外的とも言えるほどに「成功」してしまっている私たちの国においては見えにくくなっていますが、私たちのもとに日々届いてくるニュースは、この時代において、他者の他者性という問題がいよいよ抜き差しならないものとして迫ってきていることを告げています。おそらく、私たちの時代は政治という次元を根底から考え直すことを迫られているのかもしれませんが(「だが、〈同〉に基づかない政治というものが果たしてありうるのか?」)、目下のところは、友と異邦人というもともとの主題に絞って考え続けてみることにしましょう。