イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

Qさんの、忘れがたい思い出

 
 前回までに問題としてきた論点を、これまでとは別な角度から論じてみることにします。
 
 
 論点:
 対話の相手から耳を傾けてもらえない時、ひとは静かにその相手から離れてゆく。
 
 
 A君の姉である大学生のQさんが同級生のR君から避けられるようになってしまったのは、彼女がR君の話をきちんと聞いていなかったからでした。
 
 
 Qさんは、R君の容姿や雰囲気(彼女曰く「なよっとした感じのイケメン男子」)に惹かれて、R君に近づこうとしました。しかし、彼女はR君が話したかった文学の話題には、ほとんど関心を示しませんでした。
 
 
 R君としては、自分の好きなリルケの『オルフォイスへのソネット』について話すまではできなくとも、交際の相手としては、何かの文学の話、あるいは、文学的な薫りのする話ができる女の子を望んでいました。今のこの時代にそんな相手はなかなかいないことはR君も重々承知していますが、R君は、いないならばいないで仕方ないと自分でも納得していたのです(彼のようなナルシシスティックな気質の持ち主は、強いて自分から恋人を探そうとはしない)。
 
 
 Qさんは、おとなしそうなイケメンという見た目だけでR君にアプローチしつづけましたが、彼女にR君好みの会話ができようはずもありません。それというのも、彼女はこれまでの人生で文学に関心を持ったことはほとんどなく、これまでに読んだ小説としては、彼女自身の言葉によれば「高校の時の課題図書と、あとは東野圭吾くらい?」だったからです。
 
 
 
リルケ オルフォイス 文学 東野圭吾 ジュンク堂 ゲーテ 対話
 
  
 
 かくして、もともと人と話すのがあまり得意ではないR君は、あらゆる機会を捉えて彼に近づこうとするQさんから少しずつ離れてゆきました。しかし、R君も気づいていなかったことではありましたが、Qさんは、最後の時期には「わたしも、少しくらい文学とか読んでみようかな」と考えはじめていたのです。
 
 
 彼女は、彼女にしては珍しいことではありましたが、帰宅途中に池袋のジュンク堂書店に寄りました。慣れない大きな書店の文庫本のコーナーで色々眺め回ってみましたが、結局、長いものは多分読めないからということで、新潮文庫の『ゲーテ詩集』を買って帰ることにしたのです。
 
 
 その後、QさんはR君にすぐにフられてしまったので、Qさんの文学体験は、帰りの西武池袋線の車両の中で読んだゲーテの「憩いなき恋ごころ」どまりということになりましたが(前掲文庫本に所収)、Qさんはこの後には、文学という言葉を聞くたびにこの『ゲーテ詩集』のことを思い出すことになるでしょう。現在の彼女は、バイト先で知り合ったS君(経済学部在籍、現在インターンで研修中)と付き合い始めたので、自分の漫画の棚の隅にちょこんと並んでいるこの詩集のことは早くも忘れかけてしまっていますが、何十年か経った後にはこの珍しい買い物のことを、甘く少しほろ苦い気持ちとともに思い出すことになるかもしれません。