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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

人文系の学問の未来を考える(1)

  今日は、いつもよりも少し真面目な話をさせてください。ここのところ、大学の人文系の学問が危機に立たされているというニュースが入ってきています。このニュースがとても重要なものであるのは、これが昨日や今日に始まった話ではないし、これから先の数十年にもかかわることだからです。古代ギリシアの哲学者たちなら、ポリスのあり方そのものに関わる問題だとして、大いに議論しあうところでしょう。
 
 
  今の時代の私たちは、ニュースのなかで生きることそのものが問われるという状況に、それほど慣れていないのではないでしょうか。それはおそらく、私たちの国が、公のものごとや政治の問題に関心をもたなくても十分に幸せな生活を送れるほどに豊かだったからです。けれども、数十年後にはおそらく、もっと状況は悪くなっているはずです。僕は、望むと望まざるとにかかわらず、いずれ哲学や思想が今よりもずっと切実に必要とされることになると思います。それはともかくとして、当のニュースを少し見てみることにしましょう。いちおうリンクを張っておきますが、読まなくてもこの記事の内容はわかるようになっています。
 
 
 
 
  さまざまな細部を切りとってそのエッセンスだけを取りだすなら、文科省をはじめとする、国づくりに関わっている人たちが言っていることは、次のようになります。「人文系の学問なんて、世の中の役に立たないじゃないか。学生たちに必要なのは、もっと直接に生きてゆくうえで役に立つ、実用的なスキルだ。もうこれからは、人文系の学問にお金を出すのはやめよう。大学は、もっと実用的な機関に変わってゆくべきだ。」
 
 
  この意見にたいして怒りを感じる人は、大学関係者の方の中ではとても多いと思います。「何を言っているんだ。そんなことをしたら、学問の自由はどうなる。大学が、実社会の経済の必要を優先しているだけでいいのか。大学は、自律的に学問を追求する場所のはずだ。」そういう声が、たくさんのところから聞こえてきています。「さあ、闘おう。今こそ立ち上がるのだ!」そう言っている人もいます。
 
 
人文系の学問
 
 
  僕も、この意見には賛成するところが少なくありません。怒りの声をあげることも必要だと思います。けれども、ここではもう少し長い目に立って、この問題を考えてみたい。大学の人文系の学問はほぼ確実に、これからも長いあいだ、この問題につきまとわれつづけることになるでしょう。そして、残念ながら、時がたてばたつほどに事態は深刻なものになってゆくはずです。そして、そのなかでも哲学や文学が、人文系の学問のなかでもとくに大きな危険におちいってゆくことも予想できる。なにしろ、哲学や文学は、役に立たないものの代名詞のように扱われていますから!
 
 
  これはまずい。一体、どうしたらいいのだろう。僕も東京大学に籍を置いているので、その雰囲気は伝わってきています。現場にいる人たちは、いま大きな危機感を抱えている。とくに、若い研究者の卵たちは、このままでいいのか、何とかしなくてはいけないのではないかと感じつつも、なすすべがわからないまま、無力感にさいなまれています。さて、どうしたものだろう。
 
 
  あまり深刻になりすぎるのはよくないが、ときどきは真面目に考えたほうがいいこともある。明日からは、この問題について少しだけ考えてみたいと思います。暗くなってしまうこともありますが、幸いなことに、考えることだけは自由です。たとえ先が見えなくても、とてつもなく明るい未来図を説得的に描いてみせるのが哲学の力業というものです。「あれ、なんだかやれる気がしてきた。うん、これイケるよ、全然イケる!」なんとか頑張って、そういう感触をもてる結論にまで持ってゆきたいところです!
 
 
 
(Photo from Tumblr)