イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学の問いとして、「自己の問い」を問う:2021年の探求の終わりに

 
 今回の記事で、2021年の『イデアの昼と夜』の探求も終わりである。来たるべき次の年に向けて議論を整理しつつ、私たちの探求がこれから向かってゆく先を確かめておくこととしたい。
 
 
 論点:
 「死への先駆」によって啓示される本来的実存の可能性とは、「現存在であるわたしが、わたし自身の本来的な自己」を生きるという可能性に他ならない。
 
 
 これまでの議論を振り返ってみることにしよう。「わたしはいつの日か、必ず死ぬ」という事実を正面から引き受けることである「死への先駆」は現存在であるわたしに対して、次の二つの可能性を「生の可能性の全体」として開示する。
 
 
 「死への先駆」が現存在であるわたしに対して開示する、実存の二つの可能性:
 ① 非本来的な実存、すなわち、実存カテゴリーとしての〈ひと〉を生き続けるという可能性。
 ② 本来的な実存、すなわち、実存カテゴリーとしての〈ひと〉から身を引き離しつつ、「わたし自身の最も固有な存在可能」を生きるという可能性。
 
 
 日常性における人間はそれと意識することのないままに、差しあたり大抵は常に①の可能性のうちで「眠り込んでいる」。すなわち、現存在であるわたしは実存カテゴリーとしての〈ひと〉を生きることのうちで、「〈ひと〉と同じであって、誰でもないこと」へと絶えず自らを調整し続けているのだが、その選択は事柄上の本質からして、自覚的な選択として意識されることがないのである。わたしは自分自身が「わたし自身の自己」を喪失しながら生きていたということに、いわば常に後から気づくのであって、この「常に後から」の構造をそれとして指摘したことは、『存在と時間』という本がもたらした解明の中でも、極めて鋭いものの一つであると言うことができる。
 
 
 一方、「死への先駆」は突然に閃く光のようにして、もう一つの可能性を開示する。それこそは②の可能性、すなわち、現存在であるわたしが「わたし自身の本来的な実存」を生きるという可能性に他ならないのであって、ここにこそ「固有な自己を生きる」という、実存論的分析のこの段階においてはその内実は開かれたままであると言わざるをえないところの、「別の生のあり方」の存在が示唆されているのである。「死への先駆」の契機においてはなお「わたしには、今とは別の仕方で生きることも可能であるはずだ」という未規定的なあり方にとどまっているこの可能性は、「現存在であるわたしがわたし自身の最も固有な存在可能のあり方を理解し、選択すること」を遂行する「決断」の契機においてはじめて、「先駆的決意性」として本来的な仕方で開示され、実現されることになるだろう。
 
 
 
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 論点:
 本来的な実存を実現する契機であるところの「先駆的決意性」こそ、現存在である人間が彼、あるいは彼女自身の本来的な自己を生きることを可能にし、また、現存在の一員としての哲学者がそこから「存在の問い」を思索の問いとして本来的な仕方で問うことも可能になるような、『存在と時間』における探求の決定的な到達点にして、そこから探求が再び決定的な仕方で開始されるところの「見出されるべき原点」に他ならない。
 
 
 「存在の衝撃」に襲われることによって、運命的な仕方で探求を開始した古代の哲学は〈コスモス〉や〈イデア〉を問い、中世の哲学は、自らの時代に与えられた歴史的必然として〈神〉を問うた。近代に入ってから、哲学は〈自我〉からすべての物事の意味と価値を問い直すことを学んだが、ここで言う〈自我〉とはまずもって意識主観、あるいは認識能力の源泉としての「わたし」をこそ指し示していたのであって、〈自己〉の問題はいわば、すれすれの所でそれとして主題化されるには至らなかったのである。自己の問題に関しては、哲学の歴史はおそらくはそれと気づくことのないままに、常にきわめて微妙な迂回の姿勢を取り続けてきたと言うこともできるかもしれない。
 
 
 しかしながら、キルケゴールが自分自身の哲学者としての生命を賭けて主張していたように、「自己を掴みとる」というこの問題こそは、人間存在が他のあらゆる問題にもまして探求するべきその当の問題であり、世界のうちに生まれ、また死んでゆく一人の人間が、そのパトスの全重量を賭けて無条件で立ち向かってゆくに値する「問題の中の問題」であるということも、ありうるのではないだろうか。
 
 
 アウグスティヌスキルケゴールといった哲学者たちが行った先駆的な探求にも大きく依拠しながら、「自己を生きること」の問題系を学問の言葉を用いて語り出そうとした『存在と時間』の企ては、この意味からすると、およそ学問の対象になるとは思われてはいなかった主題を大々的に学問の中心に据えつつ、むしろそこにこそ「存在の問い」を哲学の問いとして問うためのアルキメデスの一点を見出してゆこうという、きわめて挑戦的な試みであったと言うことができる。このような試み、あるいは挑戦として書かれた本が「20世紀のこの一冊」として、現代を生きている私たちの手元にまで届けられているという事実は、歴史的に見るとこの上なく興味深いものであると言えるが、この内実をさらに探ってゆくことは、来たるべき2022年に持ち越すということとしたい。「本来的な自己を掴みとるとはいかなることか」という問いについて考えぬくことが、当面の目標である。
 
 
 このブログも、ハイデッガーの読解を開始した4月頃から少しずつ読んでくださる方が増えはじめ、今年の最後の数ヶ月を通して、さらに多くの方に読んでいただけるようになった。読んでくださる方がいることからは、哲学を続けてゆく上で非常に大きな励ましをいただいているけれども、よりしっかりとしたものが書けるよう、来年も引き続き全力を尽くす予定である。今年も今日を入れてあと二日で終わりであるが、読んでくださっている方の2022年が、実り豊かなものであらんことを……!
 
 
 
 
 [2021年は『イデアの昼と夜』を読んでくださって、ありがとうございました。はてなスターやブックマークを通して、また、Twitter上などで応援してくださる方がいることは筆者が哲学に打ち込んでゆく上で、本当に大きな活力の源になっています。どこまでゆけるのかはわかりませんが、筆者は今年の終わりに至って、哲学の活動に自分自身の存在を賭けるという決意を改めて固めました。もしよかったら、来年も引き続き、お時間のある時などに読解にお付き合いいただけたら幸いです。それでは、よい新年をお過ごしください!]