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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

燃えゆくものはみな美しい   ー『宇治拾遺物語』と仏師良秀

死の欲動と倫理の問題 本について 本、音楽、映画 哲学
 
 芸術と倫理は、危うい均衡のうえでバランスを取りつつ、少なくとも表面のうえではつねに和平を保っています。このことの証拠としては、作品の終わりには正義がかならず取りもどされるという事実を指摘することができるでしょう。ホメロスの『オデュッセイア』から鳥山明の『ドラゴンボール』にいたるまで、「悪は最後には滅びる」というのは、アートからエンターテインメントまでを貫く真理であるといえそうです。
 
 
 この和平条約においては、倫理は芸術になんとか従ってもらうことができて、とりあえずはひと安心という様子です。「これで、この世の秩序が保たれる。」ところが、芸術のほうはどうかといえば、おそらくこの和平にたいして潜在的な不満を抱いています。それはもちろん、すでに見たように、芸術を深いところで突きうごかしている死の欲動は、道徳法則の影響が及ばないところで作動しているからです。うがった見方をするならば、この和平は見せかけの平和にすぎないのだとさえ言えるかもしれません。
 
 
 今回の記事では、こうした事情についてきわめて象徴的なしかたで語っているエピソードを見てみることにしましょう。中世に書かれた説話集である『宇治拾遺物語』から、「絵仏師良秀家の焼くるを見て悦ぶ事」を取りあげてみることにします。このエピソードは、現代になってから芥川龍之介が短編小説(『地獄変』)としてリメイクをほどこしたことでも有名ですが、もともとの説話は、三分間で読めるほどに短いものです。
 
 
仏師良秀
 
 
 仏の絵を描くことを仕事としている良秀という男の家が、火事によって焼けてしまった時のことです。もともとは、隣の家から出た炎が、風によってあっという間に良秀の家にも燃えうつったのでしたが、良秀本人はなんとか無事に逃げだすことができました。
 
 
 あたりの騒ぎのせいで、近所の人びとは何が起こったのかと、街中に飛びだしてきます。「何ということだ、家が燃えている!」彼らはまず、突然起こった火事にとても大きな衝撃を受けましたが、その次に目に入ってきた奇妙な光景に、思わず目を奪われてしまいました。
 
 
 恐ろしいことに、道の向かいから燃える自分の家を眺めている良秀が、炎を見つめながら笑っているようなのです。良秀はしきりにうなずきながら、こうつぶやいています。「ああ、これは大したもうけものだ。これまでの描きぶりは、どうやら出来がよくなかったということだな。」
 
 
 人びとは、思わず息を飲みました。それまで描いていた絵も、一緒に暮らしている妻子さえもがまだ燃えている家の中にいるはずなのに、なぜこの男は笑っているのだろうか。とうとう我慢ができなくなったのか、その中の一人が、良秀に尋ねます。「これはまた、どうしてそんな風に立っているのですか。実に驚きあきれることだ。ひょっとして、何かに取り憑かれたのですか。」
 
 
 そう問いつめられた良秀は振り向いて、人びとをあざ笑いながら、次のように答えました。「一体どうして、物に取り憑かれるなどということがあろうか。私はいたって正気だ。私はこれまで、不動明王の炎を実にまずく描いていたということに、やっと気がついたのだ。今見ていると、ああ、こういう風に燃えているのだなあと、至極合点がいったというわけだ。」
 
 
 「さあ、これこそもうけものと言わずして、なんであろうか。絵の道によって世の中を渡ってゆくにあたっては、仏さえ上手く描けるならば、こんな家ごときなど、百だろうが千だろうが建てられることだろう。あなたたちこそ、そういう才能がないものだから物惜みをしているにすぎないのだ。」
 
 
 こののちに良秀が描いた不動明王は、「良秀がよぢり不動」として大変な人気を博した、と旧記は伝えています。不動明王は、人間がもつ宿命的な煩悩を、炎によって焼きつくす仏です。汚れた人間の心を滅ぼしつくすためには、美しく燃える炎が必要だ。良秀はこの時、「たとえ自分の妻子がその中で燃えていたとしても」、とでも付け加えたかったのでしょうか。
 
 
 芥川龍之介のリメイクの中では、設定は少し異なっていますが、良秀は、この世のものとは思えないほど美しい絵を描いたのちに、首をくくって自殺したことになっています。芥川という人は、人間が倫理を踏み越えてしまう瞬間に、文学によって迫ろうとしつづけた人でした。オリジナルの『宇治拾遺』においてはそうした後日談もなく、ただ事実だけが投げ出されていますが、どちらの方が「芸術的な完成度が高い」かは、おそらく人によって意見が異なるでしょう。
 
 
仏師良秀
 
 
 「あはれ、しつるせうとくかな」「わとうたちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみ給へ」など、このエピソードには、一読して忘れがたい表現が数多く見つかります。『宇治拾遺物語』を書きつけた無名の記者たちは、切りつめた文体で、中世の時代と人間性そのものののリアルを現代を生きる私たちのもとに伝えています。
 
 
 芸術と倫理の相克関係については、人間は歴史をとおしてこれまでずっと考えつづけてきたのだということが、このエピソードからもうかがい知れます。『アウトレイジ』のような作品は、私たちにたいしてこの問いを先鋭化して投げかけているとも言えそうですが、暴力と血を売り物にしたエンターテインメントが至るところにあふれている私たちの時代は、この問いがきわめてクリティカルなものになっている時代だということはできないでしょうか。
 
 
(つづく)
 
 
 
(Photo from Tumblr)