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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

哲学を根源から問いなおす

 
 すでにこれまでの探求において、私たちは、一般的な意味における哲学の領域をだいぶ踏み越えてしまっています。そろそろ自分の哲学の立ち位置にたいして、自覚的に考えておく必要があるようです。
 
 
 さて、次のような疑問には、今のうちに答えておくべきであるように思われます。
 
 
 「あなたは、『神が私たちのひとりひとりを愛している』という点について、哲学の範囲内で論じようとしている。しかし、それは宗教の領域に属することであって、哲学の問題には属さないのではないか。あなたの問題は、むしろ神学で取りあつかうべきものなのではないか。」
 
 
 確かに、この意見には耳を傾けるべきものが多くあります。けれども、すでに何度か論じてきたように、次のように答えることもできるように思います。
 
 
 これまでの哲学、とくに現代の哲学は、神のような存在については論じずにすませようとする傾向を持っている。しかし、神が存在するかどうかは、本来、私たちの生きることのよさを左右する重大な問題のはずだ。
 
 
 そうであるとすれば、人間は、少なくとも一つの可能性として、神が存在する場合の生のあり方についてしっかりと考えておいた方がよいのではないか。とりわけ、生きることのよさを探求する哲学の営みには、このことが求められているといえるのではないか。
 
 
 
神 存在 哲学 不確定性の形而上学 ニヒリズム 神学
 
 
 
 実は、このように言うことは、哲学の営みそのものにたいする根本的な再提起を行うことをも意味しています。
 
 
 もうずいぶん昔から、哲学は、「善いか悪いかには関係なく、真理それ自体を探求する営みである」と思われるようになってきています。そして、それとともに哲学者のイメージも、論理学者や科学者のそれに近づいてゆく傾向にあるようです。
 
 
 けれども、こと哲学の場合に関しては、本当にそれでいいのだろうか。哲学をその根源にまでさかのぼるならば、生きることのよさの探求というモメントは、哲学とは決して切り離しえないものになってこざるをえないのではないか。
 
 
 哲学と善なるものの関係について、もう一度考えなおしてみるなかで、神の問題が必然的に浮かびあがってくるのだとしたら、どうだろう。ここには、あらゆるニヒリズムを突きぬけて、哲学的思考に新たな命を吹きこむ可能性があるのではないかと思います。