そういうわけで、ここからは、ふたたび生きている神の光のもとに照らしつつ、真理を探求してゆくことにしたいと思います。
神はこの探求にとって、方向づけを行うコンパスを与えてくれる存在でもあれば、終着点そのものでもあります。現象学的還元や言語の分析がひとつの方法であるのとまったく同じように、神のもとでの探求という哲学のあり方は、哲学のひとつの方法論となるでしょう。
もちろん、純粋に哲学的な見地からみるならば、このような方法論を選択することについては、すべてのことにおいて誤ってしまう可能性も、もちろん否定することはできません。
その一方で、少なくとも論理的には、「神のことを考慮に入れないと、哲学の問題は十全なしかたで解くことができない」という可能性があることも事実です。僕はこれからこの方法論にしたがってさまざまな問題について考えてみることにしますが、神の存在を信じていない方にも、何かの参考になれば幸いです。
それにしても、哲学を学びはじめたころには、まさか自分が、ある意味でこれほどに極端な方法論を取ることになるとは、思いもしませんでした。月並みな言い方にはなりますが、運命というのは、本当に不思議です。
しかし、極端であるとはいっても、僕はこの方法論を取ることによって、哲学の歴史のこれまでの流れにたいして正面から向き合っているつもりです。
哲学はいま、生きている神という問題圏に真剣に取り組むことを求められているのではないか。僕は、信仰者としてのみならず、ひとりの哲学徒としても、そういう予感をこれまでにもずっと持ちつづけてきました。
2月あたりから思いきって探求をはじめてみて、本当によかった。理性のみによっては、真理がどうなっているのかは誰にもわかりませんが、これが僕のこの世での仕事であることは、どうやら間違いなさそうです。命を燃やしながら、この仕事に日々精を出すことにします。
読んでくださって、ありがとうございました!だいぶ粗いスケッチになってしまったので、不確定性という話題については、いずれまた論じなおしたいと思います。