イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学についての考察のおわりに

 
 今回の探求の終わりに、次の論点を見ておくことにします。


 「哲学者がなしうる最高のこととは、他の人々のうちに、真理への愛を燃え立たせることである。」


 人間が到達することのできる知恵には、どんな場合にも限界があります。ある人が、これこそが哲学だという当代最強の哲学を打ち立てたとしても、その哲学は、半世紀もたたないうちに必ず王座から引き降ろされることでしょう。


 けれども、デカルトの、ヘーゲルの、そして、フッサールドゥルーズの哲学は、いつでも概念の探求に燃える若者の心をとりこにせずにはおきません。彼らの哲学のうちには、「よし、僕も、わたしも、真理のために身を捧げてみようじゃないか!」と言わせずにはおかない何かがある。


 哲学とは、この炎のことに他なりません。誰も、人間からこの炎を取り去ってしまうことはできない。仮に、世界がこの炎のことを急速に忘れ去るようなことがあったとしても、この炎は、いずれ必ずその命を取り戻すことでしょう。


 そうであるとすれば、筆者としては、もういつまでも哲学のあり方について語りつづけているわけにはゆきません。次回からは、哲学そのものの探求の方に足を踏み入れてゆくことにしたいと思います。



真理 デカルト ヘーゲル フッサール ドゥルーズ ギリシア悲劇 アレーテイア



 最後に、今回の探求について、二点だけ補足しておくことにします。


 まずは、真理と愛の関係について。真理は、一見すると人間に対して残酷な力をふるうように見えることもあります。そのことはたとえば、ギリシア悲劇や、この悲劇から根源的なインスピレーションを汲みとっているニーチェの思考などのうちに、典型的に見てとることができる。


 けれども、そうした厳しさの存在を認めたうえで、真理を愛において思索してゆくという道が、ありうるのではないか。この試みは、真理をアレーテイアとして思索したハイデガーの真理論からさらにその奥へと探求を進めてゆくことを、哲学者に要求するでしょう。


 二つ目に、このことと関連しますが、真理と神、そしてキリストとの関係というトピックがあります。これは、上述の愛における真理論の極北に見出されるトピックであることが予想されます。読んでくださって、ありがとうございました!