イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

移民の女性から言われたこと

 
 わたしとあなた、自己と他者をめぐる対話について、もう少し考えておくことにします。


 「他者であるかぎりの他者とは、まずもって、わたしが求める他者ではなく、わたしを求める他者である。」


 わたしがあなたを求めているならば、わたしとあなたの関係は、あなたがわたしの欲望から、わたしのコナトゥスから必要とされているにすぎないという関係に還元されてしまう可能性にさらされることになります。この場合には、あなたはある意味でわたしの一部に回収され、他者性は自己性に回収されるということにもなってしまいかねません。


 これに対して、他者がわたしのことを求めているという場合には、他者が他者であるということが際立ってきます。そして、このことは、他者が痛みを抱えた他者であるときにこそ、最も端的なしかたで示されると言いうるのではないか。


 痛んでいる他者は、まず何よりも自分の声を聴きとってもらうことを、わたしに求めています。この場合、わたしは自分自身が語るのをやめて、あなたの痛みを知るように努めなければなりません。


 この痛みとは、物質的な困窮であることもありえます。その場合には、わたしは単にあなたの声を聴きとるだけではなく、あなたとパンを分かちあうことまでも求められるかもしれません。対話の要求は、すぐにでも倫理の要求に転化しうるというのは、哲学的にみても重要な観点なのではないかと思います。



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 筆者は今から5年ほど前に、電車の中で、見ず知らずの移民の女性とたまたま話すという経験をしたことがあります。どういうきっかけでそうなったのかは、今となっては覚えていませんが、千葉から東京までの道のりのあいだ、一時間半ほど話をしました。


 最初のうちはさまざまなことを話していましたが、彼女が自分の働いている工場の話をしたのちには、いつしか彼女は「何か仕事はないですか、何でもいいんです」とくり返すばかりになっていました。


 その時には、ただ「申し訳ないけれど、自分には何もできません」という返答をくり返すばかりでしたが、彼女から「仕事をください」と言われつづけたことは、その後にも何度も思い出すことになりました。彼女はあの時、一体どう思いながら自分に仕事を求めつづけていたのだろうか。
 

 その答えは、今となってはもう知りようもありませんが、その時の彼女が求めていたことについては、今の世界のあり方を含めて、本当はもっとしっかりと考えておくべきかもしれません。この点については、自分があれからも特に何もしていないという事実を認めないわけにはゆかないようです。