イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

エクリチュールという語について

 
 「原理的に排除することのできない、ある郵便的不安……。」
 

 たとえば、エクリチュールという単語である。これはフランス語で「書き物」という意味で、日本語で書き物って言葉はあんまり使わないから、このブログでときどき使っている。
 

 ただ、ここには哲学の側の事情もある。20世紀後半の哲学・人文学はフランスがすごかったし、僕もその影響を強く受けた流れの中で育ったから、そのまま言葉づかいを引き継いでいる。本題とは関係ないけど、華やかな知の時代が終わったあとの砂漠の中で何を考えたり書いたりしたらいいのかというのが、このブログのライトモチーフの一つだ。
 

 閑話休題エクリチュールって言葉を人が読んだ時に、哲学になじみのある人なら、おお、この時代でもまだ使ってんなーって懐かしさと親しみを感じてくれる可能性はある。が、そうでない場合はどうか。
 

 何じゃこりゃ、となるではあろう。そののち、ググる人はググるかもしれない。が、もういいや意味わかんないし哲学ってやっぱむずいやポチッってなって、もはや読むことのない人もいるかもしれない。そこには、実にいろんな可能性があるように思われる。
 
 
 
 エクリチュール フランス 哲学 郵便的不安 炎上
 
 
 
 エクリチュールならぬ「ちゅーる」っていう商品名のネコ用のごちそうがあって、たいていのニャンニャンちゃんたちはこれに目がない。ネコ好きの人は、エクリチュールという言葉から場合によってはこの「ちゅーる」を想像するかもしれない。
 

 何が言いたいのかというと、書いたもの、つまりエクリチュールがどう読まれるかってホント制御できない。これを痛感したのは三年前、政治についてちょっと書いてた時である。
 

 特に9条とかについて書こうものなら、かなりの覚悟が必要だと学ばされたのである。幸いあんまり事故は起きなかったけど、政治的エクリチュールには原理的にいって多大な危険が伴うと、短い期間ながら教えられたのだった(郵便から炎上へ。近世の哲学者たちがくぐり抜けた、命にすら関わる不安……)。
 

 というわけで、僕はこれからもエクリチュールという言葉をたぶん使いつづけるわけだが、それがどう受け取られるかは、今もそしてこれからも制御不能であろう。ささいな例ではあるが、ここには郵便的不安なるものの深淵が、すでにいくぶんか透けて見えているように思われる……。