まずは、私事を片付けておくことにします。
「筆者はこれから、何をどのように書いてゆくべきか。」
岩波への切っても切りがたい執念(執着とも呼べようが、哲学者にはなべてこの固執が必要なのではないかという気もしないでもない)についてはすでに書きましたが、ここには、それとは別の事情も働いています。それは、筆者にはそろそろ、自分にはエクリチュールの可能性しか残されていないように思われるという点です。
今の人生には少なからず満足・感謝しているのですが、このままでは、哲学を学び続けてきたことが学びっぱなしで終わってしまう側面があることは否定しがたい。やはり、この世に生まれてきたからには、何かしらの花火をドカンと打ち上げてから死にたいものである。
筆者はいま32歳ですが、ここ数年、人生のポテンシャルがすでに減衰しはじめているのをうっすらと感じずにはいられません。これからも、波乱や冒険はなくはなさそうですが、この後の人生は、新たな展開があるというよりはこれまで積み上げてきたものをより深めてゆくという側面がますます大きくなってゆくことでしょう。
となると、エクリチュールという問題圏が、これまでにもまして存在感を増してゆくことは避けられないのではないか。
このノートにしか自分の命を注ぎ込む場所がないというのが、かなりリアルに見えてきた。何とも味気ないという感もなくはないが、逆にこれこそが自分の人生なのかもしれないという実感も、ないわけではない……。
今さら言うまでもないことかもしれませんが、今の時代は、哲学にも文学にも、いわゆる文壇には何の希望もないのではないかと思われます。というよりも、哲学や文学を好きな人々ですらほとんど興味を持てないというくらいに状況は無であるというのが実情なのではないだろうか。
けれども、愚痴をこぼしているだけでは何にもならないことも確かである。限りなく地味かつ無意味に思えても、あきらめの悪さだけを武器にひたすら書き続けることだけが、自分に残されたただ一つの道なのかもしれない。
何の見通しもないままに書き続けた先人たちの感じていたことが何なのか、最近では少しだけわかるようになった気もする。書くとは本質的に、たとえ何にもならないとしても、それでも書かざるをえないといった人々のための営みなのではないか……。
嘘というテーマで始めたはずが、気がつくと本音の迷宮をさまようといった趣になりつつあります。当初の予定からは外れてしまいそうですが、嘘という主題を掘り下げる準備作業として本音について考えておく必要があるということで、とりあえずは口実をつけておくことにします。