イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

プラトンとアリストテレス、その現代への影響

 
 論点:
 師の言葉は、弟子がそれを間違っていると思うときであっても、往々にして正しい。
 
 
 恐らくこれは、哲学を学ぶ時にはこの上なく重要な論点であろう。
 
 
 ホワイトヘッドが哲学の世界では有名な言葉を残していて、それは「哲学って、要するにプラトンアリストテレスの注釈みたいなものである」という趣旨のものであったと記憶している(正確な表現についてはググるか、図書館で原著に当たられたし)。昔は若干大げさなんじゃないかって思ってたけど、最近では、いやいや、あながちかもしれんなこれはと思い始めているのである。
 
 
 たとえば、ハイデッガーの『存在と時間』とかは、先生自身の表現を借りるならば、まさしく「アリストテレス現象学的解釈」、筆者なりにパラフレーズすれば、「キリスト教実存哲学の成果を踏まえた上で生の深淵に切り込んでゆかんとする、現代のアリストテレスによって書かれた『ニコマコス倫理学』」みたいなものと言えるであろう。先生の思索は、『存在と時間』を書く前からその後の「転回」のフェーズに至るまで、かなりの部分までアリストテレスの転回を模範として展開されていった(その後、詩人のヘルダーリンの言葉を基にしてぶっ飛んでゆくという、哲学的には驚きの道行きがなされる)。
 
 
 ドゥルーズ先生なんかだと見た目は相当チャラチャラしているように見えて(実際、セリフなんかもめちゃくちゃカッコいい)、本性は筋金入りの哲学マニアである。『差異と反復』は、ハイデッガーの『存在と時間』のパロディーでもあるが(「存在」を「差異」と、「時間」を「反復」と読み替えつつ、この二つのものを「現存在の実存論的解釈」の次元からアナーキーな仕方で解放しようと試みている)、いま論じている観点からすると、プラトニズムを発狂させるという野心とともに書かれたとみることもできるであろう。書き物の上では、プルースト論を書いているあたりから表に出るようになってきていたが、プラトンドゥルーズ生の哲学の間には、実は内的にもめちゃくちゃ深い連関があることは確かである(この辺り、イブン・シーナーとかドゥンス・スコトゥスとかをこの二人に絡めつつ捉えてみるならば、それなりに一貫した哲学史を書けるであろう)。
 
 
 
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 というわけで、現代の代表的哲学者たるハイデッガー先生とドゥルーズ先生にしても、それぞれプラトンアリストテレスから非常に大きなものを継承し、変奏しているわけである。まさしく、師は偉大であるというテーゼはわれわれにとって、古代の人々に対しても当てはまるのであって、現代の哲学者であっても、プラトンアリストテレスらの業績を無視することができないのは間違いなさそうである。
 
 
 しかし、想像力をたくましくするならば、恐らくはハイデッガー先生やドゥルーズ先生も、この偉大なる古代のレジェンドたちに対しては、憧れのような背伸びするような、熱い何かを感じていたのではないか。
 
 
 マルティン・ハイデッガーは「現象学的態度は、すでにアリストテレスのうちにあったのではないか」と考えつつ、俺こそが現代のアリストテレスになってやると、大いに奮起していたことであろう。また、ジル・ドゥルーズも『差異と反復』を書きながら、「ついに俺も、プラトンをパロるという激アツな境地に達したか……」と、感慨に浸っていたに違いない(?)のである。哲学史とは、先人への飽くなき尊敬とサムライ・スピリットとの、この絶妙なバランスを実現した勇者たちによって更新されてゆくものなのであろう。師は絶対に超えられぬという敬慕の念と、「俺もいつかはマスターに」という、燃え続ける志……。