イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

充足理由律と根拠の不在

 
  「わたしには、生まれてこないということもありえたのだろうか。」この問いに対して、出来事の偶然性を信じる人は、次のように答えることでしょう。
 

 わたしの誕生に関する偶然性言明:
 わたしには、生まれてくることも生まれてこないこともありえた。
 

 ところで、この言明は、次のように言い換えることもできそうです。
 

 わたしの誕生に関する偶然性言明(言い換え):
 わたしの誕生という出来事には、究極的な根拠はなかった。
 

 「このものは、なぜこのようであるのか」ということに対する根拠あるいは理由は、哲学においては充足理由と呼ばれています。たとえば、この問題に対する大いなる先人であるライプニッツは、すべての物事には充足理由があるという「充足理由の原理 」を打ち立てましたが、わたしの誕生は全き偶然であったと考える場合には、この充足理由の原理に抗って考えることになるわけです。
 

 「この世で起きる出来事には、究極のところでは根拠も理由もない。」このような考え方は、たとえば自然界の出来事に関して言われるならば、それほど衝撃的に響くこともないかもしれません。たとえば、川の流れの中で浮かんでは消えてゆく泡の生成が確率論的な過程に依存していると言われたとしても、それはそういうものかもしれないという気もします。
 

 しかし、わたしもまたその水の泡と同じように、根拠もなく生まれ、また死んでゆくのだと考える際には、わたしはなんらかの感慨に捉えられずにはいないことでしょう。それこそが本当のことだと受け入れるにせよ、それは果たして本当のことだろうかと疑念を抱くにせよ、その時にわたしを捉えた根本気分が、わたしの哲学探求を方向づけることになります。
 
 
 
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 すべての出来事には究極的な根拠がないとすれば、それは本当は、真に恐ろしいことなのではないだろうか。ある哲学者が言ったように、偶然においては存在が無に直面しているのだとすれば、偶然性の思考にもとづいて築かれる哲学は、どこかの地点でニヒリズムの色合いを帯びずにはいないのではないだろうか。
 

 この辺りで、筆者の哲学的な立ち位置を明らかにしておくことにします。筆者は、個人的には出来事の必然性を信じています。量子力学で問題となるような不確定性の領域をも含めて、この世のすべての出来事は、何らかのしかたで別様ではありえないように定められているのではないかと考えています。
 

 しかし、筆者には、この必然性への信を正当化するつもりも、その妥当性を証明するつもりもありません。かわりに筆者が行いたいのは、出来事の偶然性を信じる立場のその信もまた、究極的には信でしかありえず、従って、絶対的なしかたでは正当化することが不可能なのではないかと主張することです。
 

 すでに触れたように、現代の哲学においては出来事や存在の偶然性を受け入れることが半ば一般的になりつつあるので、筆者が行うような企ては、どちらかというとマイナーなものになることは間違いなさそうです。自然科学の観点からしても、一見すると分はそれほどよくはなさそうにも見えますが、形而上学と自然科学とは互いに矛盾はしないものの異なるオーダーに属するということを一つの根拠としつつ、これからこの点を少し掘り下げてみることにします。