今回の探求の結論:
わたしは他の誰でもない「この人間」である。
私たちは、意識の与えと「この人間」の与えという二つの与えが重なり合い、「わたしはこの人間として、わたし自身である」という言明が成立する地点にたどり着きました。考察を掘り下げてゆく余地はまだ残っていそうですが、今回の探求は、とりあえずこの辺りのところでひと段落ということにします。
すでに何度目かになりますが、私たちはこの探求の終わりにおいて、反出生主義の思考、すなわち「わたしは生まれてくるべきではなかった」に再び出会いました。くり返しにはなってしまいますが、最近ではますます、この時代に哲学をする人間の務めとして、この思想との対峙は避けられないのではないかという気がしています。
これまでにも、この思想にはさまざまな場面で出会ってきましたが、筆者自身の哲学はおそらく、この思想との対峙の中でより明確なものとなってゆくのではないかと思っています。おそらく、プラトンがソフィストたちを必要とし、ニーチェがニヒリズムを必要としたように、哲学は本質的に、自らの好敵手としての反-哲学を必要としているのでしょう。
哲学の内においても外においても、人間であるということの意味が揺らいでいます。筆者は、この点においては「人間であることを擁護する」という超保守の立場に立つことを厭いませんが、どのようにしてこの超保守のスタンスを貫いてゆくかは、今後の探求課題にすることにしたいと思います。
読んでくださって、ありがとうございました!ここのところただひたすらにコアな哲学議論を続けてきたので、次回からは別の主題に取りかかりつつ、少しゆるめのトーンで書きつないでみることにします。