イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在者がおのれを示すということ:「壁にかかっている絵」の例を通して

 
 ハイデッガー自身が挙げている「壁にかかっている絵」の例に即して、以下の主張について考えてみることにしよう。ちなみに、この例は『存在と時間』第44節の真理論が語られている中で挙げられている、唯一の具体例である。したがってこの例は、どこまでも深く掘り下げてみるに値すると言えそうである。
 
 
 『存在と時間』第44節aにおけるハイデッガーの立場:
 真理の現象がはっきりと示されるのは、認識の正しさが証示される場面、すなわち、言明の真理性が確証される場面にほかならない。
 
 
 誰かが壁に背を向けながら、「壁にかかっている絵が曲がっている」と言明したとする。ここでは、他でもないわたしが部屋にあって、そのように口にしたとしてみよう。
 
 
 壁に背を向けているのであるから、わたしにはその絵は見えていないのである。したがって、そのままの姿勢でいる限り、わたしは自分が口にした言明の正しさを確証することはできない。言うまでもなく、確証するためには、わたしは振り返って壁の方に目を向けてみなければならない。
 
 
 さて、わたしはいよいよ実際に振り返ってみて、壁の方に視線を向けてみるとする。壁には一枚の絵がかかっており、確かに、その絵はかすかにではあるが、曲がってかけられている。かくして、「壁にかかっている絵が曲がっている」という言明の正しさは確証された。わたしの認識の正しさは、証示されたのである。
 
 
 さて、この場面である。この場面をどのように解釈するかに、真理問題の全てはかかっている。具体例というのは恐ろしいもので、抽象的な議論ならば「ふーん、そういうものか」で読み流してもらえるところが、具体例ではそうはゆかない。ありありと思い描かれ、実際に生きられもする場面を引き合いに出す場合には、いわば「一切の言い訳はきかない」のである。それだけに、一流の哲学者が具体例を持ち出してくる場合には、彼あるいは彼女はそれだけの覚悟と共に、私たちにその例を差し出していると考えてよいだろう。「命を差し出す覚悟がないならば、哲学者よ、具体例を持ち出すことなかれ」というわけである。
 
 
 
ハイデッガー 存在と時間 フッサール 現象学 古代ギリシア 哲学の原初 自己示現 アレーテイア
 
 
 
 さて、目下のケースについて言うならば、「壁にかかっている絵」の事例を通してハイデッガーが主張したい内容はたとえば、以下の言葉のうちに集約されていると言えるであろう。
 
 
 「いっぽう知覚によって証示されるものとは何か。言明において思念されていたものが、存在者そのものであるということ以外のなにものでもありえない。」(『存在と時間』第44節aより)
 
 
 存在者が、それが自分自身に即してそうある通りに、そのまま自分を示すということ。ここにこそ、ハイデッガーフッサール現象学を受け継ぎ、この学と「対決」する中で掴み取ったことの核心がある。同時にそれは、彼によるならば、古代ギリシア人たちが身も震えんばかりの衝撃のうちで思考したことの、いや、思考せざるをえなかったことの根源的な反復でもある。何ということのない日常の風景のただ中で「哲学の原初」が、慎ましやかな衣をまとって示される。
 
 
 物が見られるということ、それは、わたしの中だけで完結するような過程ではありえないのではないか。壁にかかっている絵が、それがそれ自身そうある通りに、すなわち、かすかに曲がってかけられているというまさにその姿において、おのれを示す。見ることのうちには、存在者の自己示現という驚異が生起しているのでなければならない。存在者がおのれを示すという経験の方にこそ、哲学はたえず遡ってゆくのでなければならない。
 
 
 すなわち、経験の根源においては何かと何かが「一致する」とか「合致する」というのではなく、自分を示すものが自らを示すというただ一つの出来事だけが生起しているのではないかと、ハイデッガーは主張しているのである。ここで問題になっているのは『存在と時間』を、そして、全ハイデッガー哲学を突き動かしているところの根本経験以外の何物でもない。私たちはこの例のさらなる分析を通して、「アレーテイアとしての真理」というイデーのもとにまでたどり着かなければならない。