イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「自分自身を愛することの難しさ」:〈使命〉=「最も固有な存在可能」の問題圏について考えるために

 
 私たちはこれまで「重荷」という表現を用いてきたが、この言葉はハイデッガー自身が『存在と時間』において用いてもいる。「負い目ある存在」について語られている、次の箇所を引用してみる。
 
 
 「存在していながら、現存在は被投的なものであり、じぶん自身によってみずからの〈現〉のなかにもたらされたのではないものである。[…]そのような被投的な存在者として現存在は、実存しながら、じぶんの存在可能に対する根拠である。現存在がその根拠をみずから置いたのではないとしても、現存在はその根拠の重みのうちにもとづいている。現存在にとって、気分がこの重みを、重荷としてあらわにするのである。」(『存在と時間』第58節より)
 
 
 人間は、自分自身が存在することを望んだから存在しているというわけではなく、常にすでに、そのつどの自分自身のあり方のうちへと「投げ込まれている」。被投性とは、この「事実のうちに投げ込まれている」という事態を言い表すために案出された術語であった。
 
 
 「自分自身のあり方は、究極的には選ぶことができない」というのが、ここでのポイントである。確かに、人間は投企する存在者として、自らの歩む道や自分自身の生き方を選択することができるのであって、この選択の事実のうちに人間の自由もまた、あるにはある。しかし、この自由はあくまでも「被投的投企」という謎めいたあり方をしているのであってみれば、「逃れられない運命の中での、かろうじての選び取り」という性格を帯びざるをえないと言えるのではないか。
 
 
 現存在であるところのわたしはいわば、自分自身であるということの重荷を背負いながら生きてゆかざるをえないのである。わたしはなぜ、こんな風に/こんな状況のうちに/こんな心や体のあり方をして、生まれてきたのだろう。わたしはなぜ、このような不安や苦しみを抱えて、この世界の内に存在しているのだろうか。「良心の呼び声」はただ、「あなたには、あなた自身にしか果たすことのできない務めがある」と沈黙の内で語り続けている。しかし、自分自身であることの重荷を引き受けるとは、時に非常に辛いものになることもありうるのではないか。哲学の営みは、たとえば「自己実現」といった言葉ではとうてい覆いきれないようなものの重みをも受け止めつつ、そのただ中で「幸福」のようなものの可能性を、その困難さと共に考え続けてゆく必要があるのではないだろうか。
 
 
 
ハイデッガー 存在と時間 負い目ある存在 被投性 現存在 被投的投企 良心の呼び声 哲学 自己への配慮 信仰 内なる呼び声
 
 
 
 生きてゆく上では、自分自身のことを正しい仕方で愛するのが望ましいとは、よく言われることである。しかし、このこと、この根底的な「自己への配慮」をいかなる状況にあっても保ち続けることは、非常に難しいことであるように思われる。
 
 
 なぜならば、生きてゆくとは多かれ少なかれ、自分自身の抱えているさまざまな「惨めさ」に直面させられることに他ならないからである。信仰の言葉は「神が存在し、私たちの一人一人を愛している」と語っており、筆者は一人の人間としては、この言葉が生きてゆくための力を与えてくれるものであると信じている。しかし、どうなのだろうか。この言葉は、生きることから、全ての苦しみを免れさせるようなものではないのではないか。人間には、悩み苦しむことも、自らの「重荷」のうちで打ちひしがれ、自分はこのままやっていけるのだろうか、途中で道半ばにして倒れてしまうのではないかという不安や絶望に捉われることもまた、時と場合に応じてではあるが、必要なのかもしれない。彼あるいは彼女が、隣人たちの抱えている悩みや苦しみを理解し、分かち合えるようになり、場合によっては、互いの重荷を背負うこと向かって励まし合い、共苦することのできる人間になるためには自分自身も苦しむことが必要であるということも、ありうるのではないか。人間とは、しかるべき時に、しかるべき仕方で苦しむことを通してこそ完成されてゆくような存在であるとしたら、どうだろうか。
 
 
 「良心の呼び声」は、現存在であるわたしの「負い目ある存在」を理解させるべく、沈黙のうちで語る。「内なる呼び声」はあくまでも、「あなたには、あなた自身にしか果たすことのできない使命がある」と語り続けているのである。人間にとって、本当の意味で幸福な生とははたして、どこにあるのだろうか。私たちはハイデッガーのいう「負い目ある存在」の概念を掘り下げることを通して、この問いの答えへの手がかりを見出すべく、さらに探求を続けてみることにしたい。
 
 
 
 
[今回の記事では、苦しむことの意味をめぐって考えました。この問題についてはこれからも掘り下げてゆく必要がありそうですが、哲学する人間として、「幸福」の概念をあくまでも手放すことなく探求を進めてゆきたいと思います。この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]