イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

歩みを止めて、ただ見つめあうことのうちに   ーレヴィ=ストロース、今度こそ猫について語る

 
 レヴィ=ストロースの語る猫について論じるはずが、前回はそこまでたどり着けませんでした。猫は、『悲しき熱帯』のいちばん最後の文に出てきます。今回こそ、ニャンニャンちゃんのもとにまで到着しつつ、この本について論じ終えたいと思います。
 
 
 「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」すでに見たように、諸行無常の立場に身をおくレヴィ=ストロースは、『悲しき熱帯』のラストにおいて、ショーペンハウアーも顔負けの仏教思想を展開しています。さて、彼はこの本の終わりで、人類の文明の全体を眺めわたしつつ、人間には今たどっているような奴隷化のプロセスにむかうのとは別の道があるといいます。さて、その道とはなんでしょうか?
 
 
 「その道を、踏破できなくとも熟視することによって、人間は、人間にふさわしいことを彼が知っている唯一の恩恵を受けとることができる。歩みを止めること。」
 
 
 これは、すごい言葉だと思います。人間がめざすべきは、先に進むことではない。GDPを上げよう、世界のトップをめざそう、海洋資源の開発に負けるな……。地球のほとんどの国は、今日でも成長につぐ成長をめざすことをやめていませんが、レヴィ=ストロースが私たちに示唆するのは、その正反対の方向です。
 
 
 歩みを止めること。私たちはみな、あまりにも盲目的に働きすぎている。解脱はハチのように働くことを中断することのうちにあるのだと、レヴィ=ストロースはいいます。人類学者として調査をおこなった「未開人」たちの社会が、とても美しいものに見えたことは確かだ。けれども、この観点からすると、解脱は人間が自らの活動を中断するいたるところに存在しているともいえる。だからこそ、私にはもう旅することなどは必要ないのだ。「さらば野蛮人よ!さらば旅よ!」
 
 
 かたくなに先に進みつづけるのをやめたとき、人間には、すべてのものの本質が見えてくる。それは、考えることの彼岸であり、人間の世界の彼岸なのだ。ここまで来ると、レヴィ=ストロースのイデーは、もはや完全に仏教の領域に足を踏み入れているといえます。この本の最後の箇所はとても美しいものなので、ここにそのまま引用することにします。
 
 
 「われわれの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。」
 
 
 人間には決して作りだすことのできない結晶の美に、目を向けてみよう。ユリの花のうちには、本の中にはけっして見いだすことのできない、ゆたかな智慧の香りが漂っているではないか。そして、この味わいぶかい文章ののちに、お待ちかねのニャンニャンちゃんがやっと出てきます……!『悲しき熱帯』は、次のような文によって締めくくられています。
 
 
 
 レヴィ=ストロース 悲しき熱帯 猫
 
 
 
 「あるいはまた、ふと心が通いあって、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦しの重い瞬きのうちに。」
 
 
 ついに、ニャンニャンちゃんのもとにたどり着きました。『悲しき熱帯』が語る、解脱の最後のモメント。それは、何もせずに、ただ猫とじっと見つめあうことのうちにあります。レヴィ=ストロースの表現に即しながら、このことの意味について少し考えてみることにしましょう。
 
 
 確かに、わたしたちが猫と見つめあうときには、レヴィ=ストロースでなくても、ある独特な感覚に襲われることがあるように思います。わたしが猫を見つめ、猫がわたしを見つめる。それでは、ここでかわされることになるまなざしには、一体どのような意味があるのでしょうか。
 
 
 それは第一に、忍耐のまなざしです。わたしと猫は、存在すること、そして、世界のうちには苦しみもまた逃れがたく存在しているという真理に、耐えているからです。
 
 
 それはまた、静穏のまなざしでもあります。あらゆる進歩の喧騒から離れたところで、何も生みだすことのないまま、ただ互いを見つめあうことで充足を得ているからです。
 
 
 最後に、そのまなざしは、互いの赦しのまなざしです。何も生みだすこともなく、いずれ滅びゆくものとしてただそこに存在していることを受けいれあうこと。かわされるまなざしは、何も生みださないかわりに、お互いの存在を、いわばやさしく抱きとめあいます。
 
 
 ひょっとすると、ただ静かにまなざしあうことは、私たちが行っているあらゆる努力よりもずっと豊かなものをもたらしてくれるのかもしれません。これが人間同士となると、少し気恥ずかしいかもしれませんが、猫とならば気がねなくできるような気もします。レヴィ=ストロースその人は、どうやら大のつくくらいの人間ぎらいだったようですが、時おり猫と見つめあうことのうちに幸福を見いだしていたのだろうと思うと、少し心がなごみます……。
 
 
 存在することを耐えぬき、静かに互いを赦しあうことのうちに、人間にとっての救いがある。猫とかわされる赦しのまなざしが重く閉ざされるところで、『悲しき熱帯』という本自体もまた締めくくられています。この本とはこれでお別れすることにしますが、私たちはもう少し猫について考えてみることにしましょう。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
[仏教については、もしよろしければ、こちらの記事から始まる3回のシリーズもご覧ください。]
 
 
 
 
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