イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

まなざしの経験

 
 論点:
 他者であるあなたの意識は、認識の主体であるわたしの意識を超えたところに「存在する」。
 
 
 「あなたはいる」、あなたは「存在する」。わたしにとって、「わたしはある」が絶対に疑いえない明証であるのと同じように、恐らくは、あなたにもあなた自身の「わたしはある」が存在していて、あなたは人間の姿をまとったまなざしの奥から、同じく人間であるところのわたしをまなざしている。
 
 
 まなざしによって見られるというのは、特異な経験である。私たちは普段、唯一的なみる主体として、見られることなく見ることに慣れ親しんでいる。情報技術はこうした経験の安全性を保ちつつ私たちの視の力能を加速させて、まるで全世界を飛び交う万能の目であるかのように物事を透視させる、ように見える。
 
 
 しかし、他者であるあなたによってまなざされる時、わたしが精神の眼ではなく、この世界の中で生きる一人の人間にすぎないという事実がむき出しになるのと同時に、見るという行為を行う誰かがわたしの他にも存在するという、もう一つの根源的な事実もわたしに対して明かされているのではないだろうか。
 
 
 あなたがわたしを見つめているという経験について、もう少し考えてみよう。わたしには、あなたが見つめている風景そのものを見ることはできないけれども、あらゆる推論や演繹の次元を超えて、「誰かから見つめられている」という事実が避けようもなく告げられる。もう一人の誰かであるあなたは確かに、わたしをまなざしているその目の奥から、わたしを見つめているはずなのである。
 
 
 
まなざし 他者 形而上学 エマニュエル・レヴィナス 存在の超絶
 
 
 
 他者によってまなざされるというこの経験は、唯一的であるはずのわたしの唯一性を揺るがし、見ているはずの誰かを、わたしの想像を超えて、同じように唯一的であるのかもしれない誰かの存在を浮かび上がらせる。
 
 
 あなたによってまなざされているその瞬間には、わたしには、「世界には他に誰もおらず、ただわたしだけしか存在しない」という孤絶の状態からは解き放たれている。あなたが存在するということは、わたしが存在するのと同じように、疑うべくもないであろう一つの事実であると言えるのではないか。しかし、すでに述べたように、あなたのまなざしを見つめているわたしには、それでもってあなたがわたしを見つめる視そのものが直知されることはありえない。まなざしの経験は相互に可換的なものでは決してありえず、ただ、わたしを見つめる「あなた」の経験として、あなたのわたしからの超絶を消し去ってしまうことがない。
 
 
 自然科学がこの世の数かぎりない事象を可視的なものにして、世界からあらゆる神秘の外観をはぎ取ってゆくように見えるとしても、私たちの生を形づくっているこの形而上学的な深淵が消滅することはない。他者は、わたしのあらゆる孤絶を超えたところに「存在している」。私たちの探求は、他者を「存在するとは別の仕方で」として捉えたエマニュエル・レヴィナスの探求の成果を踏まえつつ、他者をむしろ「存在の超絶」として思惟する方向に進んでゆかなければならない。