イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

最も単純な問い

 
 前回の記事で扱った法然は、知恵では他に並ぶものがないと言われるほどの人だったそうです。彼は、あらゆる書物を読みつくし、当時の哲学と思想に誰よりも精通していました。
 
 
 けれども、彼は、広大な知識に満足することは決してできませんでした。「死んだのちに自分を救いとってくれる、この世を超える存在がいるのだろうか。」彼にとっては、ただその点だけが重要でした。
 
 
 神の問いはつまるところ、最も単純な問いにゆきつきます。それはすなわち、「はたして神は存在するのだろうか?」というものです。
 
 
 神は、存在するか存在しないかのどちらかです。神が存在しない場合には、人間は死ぬさいに、誰にも救ってもらうこともありません。この世のすべての悲惨は、ただそのままに放っておかれることになります。神の問いも、まったくの徒労にすぎなかったということになるでしょう。
 
 
 けれども、もしも、神が存在するとしたら。神が存在して、私たちのひとりひとりを愛しているとしたら。そのとき、すべてのものごとは、まったく違う風に見えてきます。死よ、お前の勝利はどこにあるか。お前のとげはどこにあるのか。人間は、もう空しいものを追いもとめることはないでしょう。かれは、今とは違うもののために生きることでしょう。
 
 
 
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 この世のあらゆることを知っているけれども、心の底では何も信じていない学者よりも、「神さま、わたしを救ってください」とうなだれて祈っている無学の人のほうが、ずっと救いに近いのではないか。神の問いを追いもとめる哲学は、この無学の人の祈りに近づいてゆこうとします。
 
 
 考えることが最も単純なもののもとにたどりつき、もはや祈ることと区別がつかなくなるとするなら、そのような出来事が起こるとするならば、考えることはその本来の姿を取りもどします。そのとき、考えることは、命の根源に立ちかえることと重なりあうでしょう。