「革命家は、この世で一種の超人としてふるまうことを望んでいる。」超人と言ってしまうと、映画やマンガの世界にしか関わりを持たないようにも見えますが、この欲望が私たち自身の無意識のうちに潜在していることには注意しておいたほうがよいかもしれません。
わたしにとって、わたし自身は、世界を眺めるまなざしそのものです。この存在論的な特権性により、わたしは、いつの間にか自分自身を単なる人間たちの中の一員であるとはみなさなくなる傾向を持っています。
この傾向は、完全に押さえこむことがほとんど不可能であるといってよいほどに、魂の底からわたしを突き動かしつづけています。おそらく、人間は、人間であることを超えたいという狂おしい衝動から逃れることのできない存在なのでしょう。
しかし、超越の次元が開かれたまさにその瞬間には、わたしは自分自身の姿を注視する必要がある。今や純粋なまなざしとなったはずのわたしには、真理を掴みえたと思ったその時にこそ、鏡が必要です。
倫理の要求から発される超越の光のもとに照らされるとき、わたし自身の本当の姿がはじめて明らかになります。「わたしは血まみれだ。わたしは罪人だ。」
罪というものの存在が理解しにくいのは、罪があらわれるためには、人間がすでに超越の次元に足を踏み入れていることが必要とされるからです。倫理法則の絶対性・普遍性・完全性から照らされる時にこそ、そこからのわたしの逸脱が明らかになるといえる。
しかし、だからといって、超越にまったく関わりを持たない人たちのうちに罪がないかというと、おそらくそういうことにはなりません。
自らの罪を知らない人は、たとえ他者を傷つけたとしても、それに気づくことがない可能性があります。かれの生涯はたとえば、美と享楽に彩られたものになるでしょうが、かれは、自分が夢を見るためにどれほど多くの血が流されたかを知ることのないままに、自らの生涯を終えることになるでしょう。
「もう十分だ。目を覚ましなさい。お前が愛したあの女たちを見なさい。彼女たちは死んでいるではないか。お前が殺したのだ。」