若者が「完璧なあなた」の理念に触れたのち、失恋の苦しみをこうむっている時点において、かれは気づかないうちに、すでに神の御手のうちに入りこんでいます。
もちろん、かれは自分の苦しみが、現実のうちにいるあの彼女を失ったことからくると考えていることでしょう。けれども、ここでヘーゲル的な言い回しを用いるならば、われわれ哲学者の観点から眺めるときには、事態はまったく違って見えてきます。
かれの苦しみは、あの「完璧なあなた」に等しいほどの人が、世界のうちにまったく見つからないところから生まれてきます。かれはこの手痛い失恋を経験するまで、これほどの孤独を感じたことがありませんでした。
先に論じたように、恋が内部性の度合いを高めれば高めるほど、この孤独の切迫性もまた強まることになるでしょう。
かれは悪くすると、地上からすべての人間が消え去ってしまったような感覚にえんえんと苦しめられつづけることになると思われます。
けれども、この若者の姿には、どこか宗教的なものを連想させずにはおかないものがあります。どうやら、かれの姿は、荒野で試練にあう神の人の姿に少しだけ似ているようなのです。
荒野とは、神が求道者から神以外のすべてのものを奪い去り、たった一人だけで神自身に向きあわせる場所にほかなりません。求道者はそこで、この世の一切のものをあきらめて、かれ自身の存在をただ神だけに満たしてもらおうとします。
失恋した若者が眺める世界も、まさしくこのようにひたすらに荒涼とした場所であるように思われます。この世のどんな人やものであっても、かれの魂のうちに刻まれたあの「完璧なあなた」の理念を満たすことができないからです。
対象を失って宙吊りになった「完璧なあなた」の理念は、世界崩壊とでも呼ぶべきプロセスを若者のうちで進行させてゆきます。
このプロセスは最終的に、世界そのもののみならず、恋する主体であるかれ自身のことをも完全に破壊しつくすにいたります。真理を求めつづけようとする人がどこかの時点で自分自身の死に立ち会わなければならないというのは、おそらくは決して避けられないことのように思われます。