「ニヒリズムの問題は深刻ではあるが、最も深刻であるとは限らない。」
前回すでに論じたように、おそらくニヒリズムの問題は、社会-経済的な条件が整った、物のあふれる「豊かな世界」において本格的に発生します。その意味では、この問題は「特権的に恵まれた人たち」が抱える問題であるといえる。
そうなると、哲学者としては、この世にはまったく別の問題があるという事実に注目せざるをえなくなってきます。いわゆる、貧困と悲惨の問題というのがそれです。
絶望している人のことを恵まれているというのも変な話ではありますが、医療や教育を十分に受けることができなかったり、搾取に限りなく近い環境で働かされている人たちから見れば、先進国のニヒリズムの問題は、おそらくはかなり縁遠いものに感じられるのではないか。
もちろん、だからといって、ニヒリズムの問いがどうでもいいということにはなりませんが、私たちが当たり前のように享受している豊かさの影で、物の次元で苦しんでいる他者たちが存在することもまた、忘れるべきではないように思われます。
貧者と病人が苦しみの叫びをあげている、その地球の裏で、富者が豊かさのうちで絶望のうめきを漏らす。そう考えると、この世は本当に奇妙な場所であるように思えてきます。
けれども、一つ重要であると思われるのは、貧困と悲惨の問題は、すべての人間がそれを解決することに向かって本気になれば、すでに大部分は解決していたはずの問題であるということです。
私たちは、救えるはずの人びとに手を差し伸べるかわりに、世界の無意味について能書きを並べ立てながら生きている。絶望しているはずが、自分のパンとサーカスだけはその手にしっかりと確保しながら、他者たちの苦しみに目を背けつづけている。
引き続きニヒリズムの問題を追いかけつづけることにしますが、自戒の意味をこめて、今のうちに記事のうちに記しておくことにしました。貧困と悲惨の問題については、いずれ哲学の立場から論じてみる必要がありそうです。