最近、哲学のかたわら日本の古典に夢中になっているので、そのことについて書こうかと思ったのですが、なぜか散歩して以来、和泉式部という語が頭を去りません。観念して、今日の記事は彼女に捧げることにします。
多くの才人を輩出した平安文学史上でもぶっちぎりで最強のファム・ファタル度No. 1を誇っているのが、この和泉式部です。数々の男たちの魂を奪い尽くすその生きざまの一端は、かの名高い『和泉式部日記』のうちにかいま見ることができます。
古今東西のあらゆる文献から推察するに、どうやら、およそ男なる存在のうちには、今まで積み上げてきたものすべてをぶち壊して、一人の宿命的な女性のもとで跡形もなく滅び去りたいという、狂おしい欲望が潜んでいるように思われます。この欲望はあまりにも強力なものなので、ひとたびそれが魂を蝕みはじめるや、もはやこの世の何物をもってしても彼を止めることはできません。
「バッカみたい。」
そうだ、奥深いところから、僕はバカだ。でも僕はそんなのもうどうでもいいから、この地獄の季節のうちで滅んでしまいたい。どうせこの世もロクなもんじゃないし、うふふ、もう全部どうでもいいじゃないか……。
この主題に関しては、あるアーティストによる次の言葉が比類ない明晰さをもって事態を表現しているといえるのではないか。
まさしく、かの和泉式部のもとにも、おそらくは田んぼにどハマりして亡び去っていった同胞たち、いえ、平安貴族たちがいたことでしょう。筆者自身は今のところ、恵みによって植物のように平穏な日々を過ごさせてもらっているので、どうかこの類の魔物にはなんとか出会わずにすませたいところです。
しかしphilo1985よ、お前はなぜさっきから、和泉式部についての記事を書かねばならぬという思いに襲われているのか。それは他ならぬお前のもとに、この悪魔の誘惑がやって来ているからではないのか……。
悪魔の計略は人間の日々の安堵すらをも見逃さないので、やって来た美女を棍棒で打ち払ったというトマス・アクィナス(その意志の力には驚嘆を禁じえない)の例にならって、ここは大いに注意すべきところかもしれません。ともあれ、今日は大人しく『差異と反復』の再読を進めつつ、塩化銅水溶液の電気分解を授業で教えることに専念したいと思います。