イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

適所全体性が向かうもの:『存在と時間』世界論の核心へ

 
 そろそろ、『存在と時間』世界論の核心部分に踏み込む時がやって来たようである。
 
 
 問い:
 適所全体性、すなわち、物と物との間に取り結ばれる、目もくらむほどの連関の総体としての世界は、何を「目的としている」のか?
 
 
 道具は道具全体性、あるいは適所全体性のうちで初めて道具として役に立つ。この「役に立つ」という性格を、ハイデッガーは適所性という語で言い表そうとする。
 
 
 適所性は「〜によって…のもとで」という構造を持っており、これはわかりやすく言い換えるならば、「〜は…することにおいて役に立つ」ということである。たとえば、浴室に付いているシャワーは、「シャワーによって、水あるいはお湯を出すことのもとで」適所を得ている。シャワーは水、あるいはお湯を出すことにおいて役に立っているのである。
 
 
 わたしたちの身の回りにある無数の物たちはこのように、すべて(!)何らかの意味において、その適所を得ている。問題は、その適所にあることが何に行き着くのかであるが、ここでハイデッガーが出す結論は例によって一見すると「当たり前のもの」であるとはいえ、どこまでも深く掘り下げて考えてみるに値するものである。
 
 
 たとえば、先ほどのシャワーなる道具について言うならば、お湯が出てそれで終わりだと言うならば、単に家の中にお湯を噴射する何かが存在するというだけの話であって、人間は、そんな無意味なことは決してしない。シャワーがお湯を出すのは、人間が身体や髪の毛を洗うことにおいて役立つために他ならないのである。すべての道具は、その道具を用いる現存在、すなわち人間自身の存在可能に最終的には行き着くというのが、『存在と時間』世界論の核心となるテーゼであると言ってよいだろう。
 
 
 
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 繰り返しにはなってしまうけれども、このテーゼは一見するとごく当然のものと思われるとはいえ、その含蓄は深い。そのことを確かめる前に、まずはハイデッガー自身の挙げている具体例を見ておくことにしよう。
 
 
 「たとえば、そのことのゆえにハンマーと呼ばれる、この手もとにある存在者によって手にとって振るうことのもとで適所性がえられ、この振るうことによって釘を打つことのもとで適所性がえられ、この釘を打つことによって風雨を防ぐことのもとで適所性がえられる。風雨を防ぐことは、現存在の宿りのために、つまり現存在の存在のひとつの可能性のために『存在して』いる。」(『存在と時間』第18節より)
 
 
 余談にはなってしまうが、ハイデッガーが『存在と時間』の叙述において、まるで筋金入りのハンマーマニアでもあるかのようにハンマーの例をひたすら挙げ続けている事実については、すでに数多くの研究者たちによって指摘されている。一般読者にとっては「なぜ、ここでまたハンマーが……」と疑問に思わずにはいられないこともしばしばであるが、一部のハンマー好きにとってはたまらない細部であると言えるのかもしれない。
 
 
 本題に戻ろう。ハンマーを振るうことは、最終的には「宿りをえる」という人間自身の存在の可能性に行き着くことになる。これを読んでくださっている方はもしよかったら、この記事を読み終わったのちに、家の中や住んでいる街など、身の回りにあるものを改めて見回してみていただきたい。日常生活を取り巻いているすべてのもの、文字通り「すべて」のものが最終的には人間の存在可能に行き着くことを発見して、ちょっとした形而上学的感慨に打たれるはずである。
 
 
 どんな些細なものをも含めて、人間の世界を作り上げているすべてのものが、一致して「人間のために」を歌いあげている。ある意味では、こうした物の見方はアリストテレスやカントによって敷かれた正統派路線をどこまでも忠実に継承するものであるといえるが、ハイデッガーはこの論点から、実存する存在者である人間に対する、また、超越論哲学と呼ばれる哲学の伝統に対する根源的な問い直しのための手がかりを引き出そうと試みるのである。私たちとしては、彼とともにその道行きをたどってみることにしよう。