イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

軸の再確認

 
 前々回と前回の記事を書いたあと、この辺りで少し歩みを止めて、進むべき方向を再確認しておいた方がよいような気がしてきました。
 

 「筆者は、何を書くべきか。」
 

 自由に書けるということは、何を書いてもいいぶん、何を書いていいかわからないという迷いに常に付きまとわれることでもあります。筆者の中では「何を書いてはいても、最終的には愛に繋がらなければならない」というのが、今のところの結論です。
 

 ただ、この愛なるものについて書くというのは、本当に難しい。おそらくひとは、本気で愛について書こうと思うならば、愛ではないもろもろの物事についても書かざるをえないのではないだろうか。
 

 人間は、もしもこの世で愛をもって生きてゆこうとするならば、自己にも他者にも幻滅や憤りを感じずにはいられないことでしょう。そうした幻滅や憤りを伴わない愛なるものは、聖人のそれであるか、あるいは無責任な偽善である他はないように思われます。
 

 なぜこんなことを書いたのかというと、この辺りで一度、自分のめざすところをはっきりさせておかなければと思ったからです。最近は、今まで書いてこなかったような物事のネガティブな側面を書こうと思ってきたのですが、原点を忘れてしまっては元も子もないことは言うまでもなさそうです。
 
 
 
 聖人 ブログ 愛 偽善 モンテーニュ 信奉者 岩波
 
 

 というわけで、このブログも始めてから三年になりますが、内容的には相変わらずブレにブレまくっています。中途半端に小ぎれいにまとまるよりは、大いにブレまくりながら核心を目指すべきなのではないかという気もしますが……。
 

 ともあれ、三年前に書き始めたころに比べれば、はるかに自分の本音をさらけ出せるようになってきたことは救いです。このことについては、少数ながら読んでくださっている方との関係に感謝するほかありませんが、およそ書く人間にとって何よりも重要なのは、自分が考えていることや感じていることをそのままさらけ出すことなのではないかという考え(モンテーニュを始めとして、この考えは信奉者を全く欠いているわけではない)には、以前よりは実践が伴うようになってきた気がします。
 

 岩波入りを狙うのも人間であれば、この世の罪にまみれつつも、現実を超えるイデーを追いかけ続けるのもまた同じ人間である。記事のつながりを欠くという点ではかなりカオスな展開にはなってしまいましたが、たまに自分のよって立つべき軸を確認しておくことは、順調に仕事を進めることよりも優先すべきであるとは言えるかもしれません。