フィクションとの関連で問うべき問いとは、筆者には次のようなものであるように思われます。
「仮借のない幻滅ののちに、それでも人間は人間を愛することができるか。」
おそらくは、人間に正面から向き合おうとすればするほどに、人間は人間自身に対して絶望するほかないのではないか。
かれは、自分自身にも他者たちにも倦み疲れるでしょう。そして、かれはその後、この物を言う肉の袋はいったい何のために存在するのかと自問するに違いありません。
けれども、かれは、そこで多くの人が自分でも空しいと知りながらしがみついているものについても、それは偽装された無意味に他ならないと知っています。それは、塵と知りながら塵を食らい続ける、死人のような生に他なりません。
死は、われわれが思っているよりもはるかにわれわれの近くにある。われわれは、本当はもうずいぶん前から死んでいるのではないのか。自分がすでに骸さながらであることにも気づかないまま、この世をさまよい続けているわれわれは。
今のこの時代は、無意味を問うことがきわめて難しい時代です。それはこの時代が、日常を愛するという口実のもとに、無意味を問おうとする人の絶望を深く静かに憎んでいるからです。
この憎しみは、はっきりと叫ばれることはありませんが、その分どこまでも根が深いものであるといえるのではないだろうか。絶望する人間の叫びをかき消し、ニヒリズムに根をもつ暴力的な穏やかさで殺し続ける、この容赦のない憎しみは。
現代は、マルティン・ハイデッガーが本来性と呼んだ実存の様態に対するすさまじい憎悪によって特徴づけられるのではないだろうか。そうであるとすれば、この憎悪の激しさはいまや、それに抗おうとする人間の声を丸ごと押し潰すほどの勢いに達しているといえるのかもしれません。