イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

眼差しの罪

 
 問題提起:
 デカルト的自己観の受け入れから帰結するのはつまるところ、現実からのデタッチメントという事態に他ならないのではないだろうか。
 
 
 わたしを純粋意識として捉えるということは、いわば自己を純粋なまなざしとして捉えることに他なりません。それは、何もせず、世界への関わりを宙吊りにして、ただ目に映し出されてゆくものを見つめ続けるという態度です。
 
 
 膨大な数のフィクションを消費して生きる現代の人間は、このような「純粋な鑑賞者」となる可能性に常にさらされています。そして、このことは、特にそれがある一定の水準を越えた時にはある種の倫理的な責任放棄につながる可能性をはらんでいるのではないか。
 
 
 世界の別の場所では見知らぬ隣人たちが理不尽な暴力によって傷つけられ、殺されている、そのような状況のただ中にあって、安全と繁栄を享受しながら無関心に甘んじつつ、一生をスクリーンやゲーム画面を見つめ続けることに費やすとしたら、それはおそらく、完全に正しい生き方というわけにはゆかないでしょう。作り話の中の登場人物たちの言動に本気で涙を流す一方で、現実においては、今や世界規模となった経済システムの中で他者たちを暗黙のうちに踏みにじり続けているという可能性も、なくはないかもしれません。
 
 
 鑑賞者にとっては、SFでもファンタジーでもない、見すぼらしい他者たちをめぐる暗い報道は、エンターテインメントの享受を妨げる単なるノイズに過ぎないかもしれません。それでも、今日も世界のあちこちで、構造的な不均衡を原因として多くの血が流され、その一方で貧者と病人が富者から見捨てられながら苦しみ続けているというのは、昔から変わることのない事実です。
 
 
 
デカルト 純粋意識 フィクション SF ファンタジー 理性
 
 
 
 もちろん、フィクションの消費には健全な程度というものも存在するという反論もありうるので、「あらゆるフィクションは悪である」という反フィクション論の主張が果たしてどこまで正しいのかは、慎重な検討を待ってはじめて判断を下すべき問題でしょう。
 
 
 また、さまざまな悲惨に対して絶望的なほどに怠惰であるというのは、おそらくはフィクションの消費者たちに限ったことではありません。この文章を書いている筆者自身、現代の世界が抱えている経済的・社会的不公正に対してはほぼ全面的な現状肯定をし続けているだけであることを認めないわけにはゆかなさそうです。
 
 
 ともあれ、この問題に関しては、一切の感傷主義を意識的に排除しておく必要があるのではないか。「どこかにいる可哀想な人たちを想像することによって道徳的な快感と結びついた満足を得る」というグロテスクな構造に安住するかわりに、理性による洞察を、自分自身が日々犯している不公正について反省する契機としてゆく必要があるでしょう。以前にコメントでこの点を指摘してくださった常連の一読者の方に感謝しつつ、今日の記事はこの点を確認したところで結ぶこととします。