イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

病みに病んでいる

 
 それにしても、フィクションの倫理という問題についての判断は、私たちが生きているこの世をどう捉えるかに大きく左右されるのではないだろうか。
 
 
 精神の健全性に関する二択:
  1.この世は、基本的に健康である。
  2.この世は平和の外見に反して、本当は病みに病んでいる。
 

 おそらく、まずは1の方を選びたくなるのが人情というものなのではないかと思われますが、その一方で、世界中の思想や宗教がそろって2を肯定することでほぼ満場一致をみているという事実を忘れることはできません。
 

 たとえば、仏教においては、世界は燃えさかる家に喩えられることがあります(「三界は火宅なり」)。人間たちは、実はそこが心にとっての地獄に他ならないにもかかわらず、それに気づかずに遊びつづけている哀れな子供のようなものであるというわけです。
 

 また、現代の精神分析家であるジャック・ラカンによれば、語る人間は、どれほどまともに見えようともすべて神経症者であるとされます。この場合にも、「人間は病みに病んでいる」という2の立場が支持されていることは、上の仏教のケースと変わるところがありません。
 
 
 
フィクション 倫理 ジャック・ラカン 仏教 三界は火宅なり アニメ マンガ
 
 

 2の方に有利に働きそうな事例として、今回は子供の心にかんする一つの事実を参照しておくことにします。
 

 「子供は無垢で、その心は美しい。」確かに、そういう側面もあることは間違いなさそうですが、その一方で、十代の子供たちの口にのぼる言葉のうちで最も頻度の高いものとして、「殺す」と「死ね」があることは否定することはできません。
 

 子供たちが楽しむアニメもマンガも、基本的には始めから終わりまで「ぶっ殺す」のオンパレードです。また、多くの大人も楽しむミステリーなるジャンルにおいては、純粋な謎解きを楽しむだけならば全く必要ないにも関わらず、筋の展開上、人間がバタバタと次々に死んでゆくのが通例になっています。
 

 フィクションと殺人とがかくも密接に結びついていることを考えると、1の方にも言うまでもなく一定の根拠があるとはいえ、2の「この世は病みに病んでいる」もあながち冗談では済まされなくなってきます。すべての人の心の中で「ぶっ殺す!」の大合唱が響きわたっているとしたら恐ろしいというほかありませんが、哲学的な観点からしてもそういう可能性はなくはないということを、最後に付け加えておくことにします。