船越さんに関する二言明:
「船越さんは、感じのよい女の子である。(甲言明)」
「船越さんは、感じのよい女の子として振る舞い続けることを自分でも止められない女の子である。(乙言明)」
事情や背景についてはとりあえず置いておくとしても、甲言明が偽であり乙言明が真であることは動かなさそうです。本当に、単なる「感じのよい女の子」であれば、歴史部の男子部員たちが次々に謎の精神的怪死を遂げることもなかったに違いありません。
繰り返しにはなってしまいますが、彼らの失敗の最大の原因は、乙である船越さんのことを甲であると思い込んでしまったことでした。要するに、彼女の描くウサちゃんマークの見かけ上の無垢さにしてやられたということですが、彼らが彼女にぞっこん入れあげてしまった時点で、それ以上思考するのを停止してしまっていた側面があることは否定できません。
本当は、彼らにはいま少しの懐疑という精神の剣こそが必要だったのではないだろうか。ひょっとすると、彼女は甲ではないのではないか、甲に見えている彼女のその甲性(甲であること)は実のところ、甲ではない別の存在から発出しているある種の光学的効果にすぎないのではないかという、自己の認識についての吟味の過程が彼らには欠けていたのではなかろうか。
船越さんが甲であるという想定は、彼らにとっては実に心地のよいものでした。しかし、「萌え消費」によってもたらされるその幻想の心地よさが彼らに破滅をもたらす毒となったというのは、彼らにとっては実に皮肉な事態であったと言えるのかもしれません。
誰でも理屈の上では知っていることではありますが、この世において、何かがうますぎる話というのは、まずは当然疑ってかかるべきであるのは言うまでもありません。
したがって、なぜか自分に非常に大きな好意を示してくれて、実に愛らしいウサちゃんマークを書くのが得意なはにかみ屋さんのメガネっ子が目の前に現れたからといって、すぐにメロメロになったりするべきではないのはもちろんです。その好意は一体、どこに由来するものであるのか。ウサちゃんマークを描く彼女自身の魂は、そのマークの見た目と同じくらいに無垢なものでありうるのであろうか(cf.そもそも、ゆるキャラというのは存在論的に見て、大変な曲者なのではなかろうか)。
こうした疑問は、仮象と真理の戯れに精通した練達の哲学者にとってはなじみ深いものですが、いまだ修練の途上にある高校男子生徒たちが罠にかかってしまったとしても、彼らを責めることはできません。「彼らはなぜ滅びなければならなかったのか?」という問いに対しては、私たちとしては、カクテルグラスを前にしながら「坊やだからさ」とつぶやくほかありません。
いずれにせよ、人生においては、本質的な真理については他の誰でもない自分自身の失敗から学ぶしかないという事実が揺らぐことはなさそうです。哲学者としては、いかなる可憐な哲学女子が現れようとも、田んぼの案山子を目にした時以上に心が動かされることはないという絶対寂静の境地にあらかじめ到達しておく必要があるでしょう(筆者が既にこの域に達していることは言うまでもない)。