イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

公共世界と反出生主義

 
 公共の空間における言論を、いかに現在進行中の、あるいは来るべき野蛮化と蒙昧化から守ってゆくかというのは、良識あるすべての人が無視することのできない大きな問題であることは疑いえない。しかし、ここで筆者が哲学者として行いたい問題提起は、これとは異なる角度からのものである。
 
 
 問題提起:
 人間にとって重要ではあるが、その本性からして公共世界では議論することの難しい問題も存在するのではないか?
 
 
 たとえば、哲学の周辺では、反出生主義と呼ばれる思想について、近年少しずつ語られ始めている。この思想はなんらかの確固とした綱領を持つというよりも、「生存はその本性からして苦に他ならず、従って、人間は生まれてくるべきではない」という価値観のことを広く指すものと思われるので、ここでもその路線に沿って考えるものとする。
 
 
 さて、反出生主義な価値観を持つ人(便宜上、以下では反出生主義者と呼ぶこととする)が問いたい問いとはおそらく、「生きることには意味などないのではないか」「人間はいっそ、滅んでしまった方がよいのではないか」といったものと思われるが、これらの問いは言うまでもなく、公共世界でおおっぴらに議論することは難しいであろう。公共世界における議論は基本的に有用性の論理(「最終的には、政治的コンセンサスの枠組みに落とし込むことのできる問題である」「経済合理性の観点から見て妥当」等々)に基づいて行われているが、反出生主義者が議論したいのは「そもそも、有用性という観点には意味がないのではないか」という論点に他ならないのであって、最初から議論が成立しない観のあることは否めないものと思われるのである。
 
 
 
反出生主義 有用性 公共世界
 
 
 
 政治や経済をどのように良くしてゆくかという問題であれば、公共世界では誰でも大いに議論することができる。しかし、生きることに意味がないのだから、そもそも政治や経済といったものについて語ること自体も無意味なのではないかという問いかけが公共の言論空間で真剣に受け入れてもらえるかどうかは、大いに疑わしいところである。
 
 
 公共世界における言論は、口に出して言われていなくとも、あるいは、論者たちの意識にさえ上っていなくとも、「生きることは望ましい」という暗黙の前提に則って行われている。この前提に対する信は非常に強固で、ほとんど議論の余地のないものなのであって、この前提に疑問を感じている人間は、おそらくはその疑問を公に口にすることにさえも大きな抵抗を感じることだろう。
 
 
 反出生主義的な価値観を持ってはいるけれどもそれを公の場ではほとんど表明しない「隠れ反出生主義者」や、この思想についてまだ耳にしてはいないけれどもそれを聞くならば多かれ少なかれ共感するであろう「潜在的反出生主義者」まで含めると、現在、哲学の世界の周辺で反出生主義的な価値観に関心を持っている人の割合はすでに無視できないところにまで増大しているものと思われるが、それに反して、この思想に関して公に議論がなされることは非常に少ない。このことは、前回に取り上げた、現代社会の公理であるところの「公衆が真理を語る」が、より正確には「公衆が、有用性の次元の妥当性を議論の余地のない前提とした上で真理を語る」であり、従って、人間の世界においては有用性の論理から外れたところで言葉を語るということそれ自体が難しくなっているという事情に起因する。「生きることには意味などないのではないか」は、その本性からして公共世界において提起することの困難な問いであると言わざるをえないようである。