イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

公共世界と信の構造

 
 論点:
 私たちが生きている公共世界も他のあらゆる時代の社会と同じく、それに特有な信の構造を備えている。
 
 
 前回取り上げた論点を、さらに掘り下げてみることにしよう。すなわち、ここでは、現代の人間が言葉や言論のやり取りを行っている公共世界も、「他者が真理を語る可能性を信じる」という人間の実存論的な構造に基づいて成り立っているということを、より詳細に確認しておきたいのである。
 
 
 公共世界では、政治・経済、あるいは教育・医療・福祉など、人間の生存に関わるさまざまな問題について語られ、議論される。これを改めて考えてみるならば、公共世界において議論されているのは、「一つの国家あるいは社会において、人間たちが共生してゆく上で対処してゆかなければならないさまざまな問題」であると言うことができそうである。
 
 
 ここで注目しておきたいのは、私たちもそこに属している近代以降の社会においては、こうした議論が不特定多数の公衆によって担われるという点である。
 
 
 現代の世界においてももちろん、さまざまな領域や分野における公人や専門家は存在するけれども、議論を行う資格はこうした人々だけに限定されるわけではない。むしろ、理性と公共の福祉への配慮とを備えた人間であるならば、誰でも語り、議論することができ、その議論の積み重ねを踏まえた上で社会のあり方が決定されてゆくべきだというのが、公共世界を形づくっている前提であるとされている。現代の公共世界とは、不特定多数の公衆による議論との密接な連関において物事が決定されてゆく世界なのである。
 
 
 
 公共世界 真理 公衆 デマゴーグ 野蛮と悲惨 コミュニケーション・コンセンサス至上主義
 
 
 
 ここからが、今回の記事における議論の本題である。これまで論じてきたこととの関連からこの事態を捉え直してみるとすれば、現代の世界は、「公衆が真理を語る」という前提への信に基づいて成り立っていると言うこともできるのではないだろうか。
 
 
 「公衆が真理を語る」というのは、それ自体として考えるならば、何ら確実なものを持っていないとも言えそうである。公衆は、公徳心の適切な育成を欠くならば容易に野蛮な大衆と化してゆくだろうし、ひとたびこうした野蛮化の過程に拍車がかかるならば、民主主義や言論の空間もまた、富者による策謀やデマゴーグによる動乱によって、あるいは自分自身の既得権益やポジションニングの事しか念頭に置いていないさまざまな論者たちが巻き起こす論争や小火騒ぎによって、次第に衰退・崩壊へと向かってゆくことだろう。
 
 
 それでも、私たちの社会が言論の自由に対して制限をかけることをせず、「誰でも何についてでも語ることのできる社会」という原則を保持しているのは、私たちの社会が「公衆が真理を語る」という前提を(明確に意識されているか否かは別として)至上のものとして抱き続けているからに他ならない。おそらく、大衆は野蛮化し、蒙昧化することをやめないであろう。「語る」というよりは、もはや何らかの言葉らしきものをわめき立てる動物と化した彼らを煽り立てる扇動者たちもまた、後を絶たないことであろう。それでも、現代社会が現代社会である限りは、「公衆が真理を語る」は公理として真であり続けるであろう。
 
 
 筆者も哲学における先人たちの例に漏れず、「公衆が真理を語る」という前提に対しては大いに懐疑的であるが(というよりも、人間の性質について胸に手を当てて考えてみるならば、誰もがこの前提に対しては一抹の不安を感じずにはいられないものと思われる)、歴史に学んだ人間としては、たとえどれほど問題があるにせよ、現代のコミュニケーション・コンセンサス至上主義社会が「数多の最悪の中の最善」であるという見方には賛成である。歴史も教えている通り、これとは違った政治や社会のあり方があるはずだと理想に燃え、なおかつ不幸にもその実現に成功してしまった時にこそ、社会は取り返しのつかない形で野蛮と悲惨の奈落へと落ち込んでゆくことだろう。すでに紙幅も尽きてしまったので、この話題について筆者が行いたい問題提起については次回に回すこととしたいが、今回はとりあえず、現代の社会を支えている根本の信について確認したということで満足することとしたい。