イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学と芸術が行ってきたこと

 
 論点:
 公共世界における言語活動からは必然的に抜け落ちてしまう実存の次元の存在を示し続けることは、哲学の務めの一つである。
 
 
 哲学も公共の言論空間において語る際には、おのれの語りを何らかの公共性を備えた一つの言論とみなしつつ語らざるをえない。けれども、それは一つの特殊な語り、公共性を帯びてしまっている言葉には、常にすでに真実なものがどこか欠けてしまっていることを絶えず示し続ける語りであらざるをえないのではないか。
 
 
 人間は実存する。そして、この実存なるものは、その本性からして最大公約数的で、有用性の駆り立てに従属してもいる公共的な言語活動のうちには、十全な仕方では現れてくることができない。政治や経済、あるいはさまざまな社会問題について語るとき、私たちは不特定多数の公衆の一員として、自らの実存を著しく局限化しているのである。
 
 
 もとよりこうしたことも言うまでもなく、社会を保ってゆくためには必要な側面もあることは確かである。しかし、現代という時代をしるしづける有用性の論理による駆り立てが人間を息も詰まるほどに圧迫するものとなり、公共世界における言語活動が一人一人の人間を一種の「監獄化したオイコス」に閉じ込めるならば、その時には、人間の実存は絶えることのない心の病の危険にさらされざるをえなくなるのではないか。「わたしは生まれてくるべきではなかった」という反出生主義のうめきは、この意味からすると、私たちの時代を特徴づけているこの見えない絶望を象徴しているとも言えるのかもしれない。
 
 
 
監獄化したオイコス 公共世界 実存 数の論理 コミュニケーション
 
 
 
 哲学や芸術の営みはもともと、人間の実存の問題を公共世界において提起するという逆説的な務めに従事してきた。哲学と芸術は、公共世界において語られる際には必ず局限され、多くの場合には切り落とされてしまうはずの実存の深淵を、そうしたものとは何よりも折り合いが良くないはずの公共世界に提示することを自らの務めとしつづけてきたのである。
 
 
 だからこそ、嘘偽りのない哲学や芸術の営みには、必ず何らかの「否」の契機がはらまれている。それは公共世界に向かって、あなた方のしていることはいくら何でも滅茶苦茶だ、人間性はすでに無視することのできない仕方で貶められている、人間はもはや、自分自身が何物であるのかすら分からなくなっているではないかと、ある場合には激しく、ある場合には静かに、抗議と拒絶の声を発さずにはいないのである。
 
 
 人間性の名において人間自身に向かって「否」を突きつけるこのような営みが、歴史においてこれまで維持され、守られ続けてきたという事実には、何か真に驚くべきものがある。有用性の論理による駆り立てが次第に容赦のないものとなり、数の論理とコミュニケーションとが至上の価値として専制を振るっている現代において、哲学と芸術はなおも自らの務めを果たしうるのだろうか。そのためには少なくとも、哲学は、反-コミュニケーションとしてのコミュニケーションでなければならないという自らの呪われた使命について妥協することなく考え抜くのでなければならないだろう。